過去とか、今とか。
自分が育った環境からは、
とうてい異常としか見なせないことが、
この地においては当然とされる。
それは共通の宗主民族の寛容性を示しているのだろうが、
幸福だった少女時代の思い出に浸ってばかりはいられない。
女は過去を過去として未来を視なければならない。
本当に通常の子供が生まれるのか?
女は、
器に迎え入れられるべき魂が、
向おうとしている道がいばら道にならざるをえない。
そのことに思いをはせずにはいられない。
龍頭蛇尾の怪物が思い浮かんだ。
出産したとたんに、
彼女の、
視界に飛び込んできたのは、
目を覆いたくばかりの怪物だった。
女は、しかし我が子だと認め、
抱きとらないわけにはいかなかった。
しかし異民族たちは自分を誅すべき悪魔だとみなし、
生まれた龍頭蛇尾ごと殺しにかかる。
自分の味方になってくれたのは、
かつて侍女と、
そして、夫だけだった。
そういう悪夢だった。
漆黒の闇の中で、
全身が汗まみれになりながら、
それが体表から体温を奪っていくことを、
歯痒い思いで見つめながら、
悪夢のなかでしんじつその言葉が表現するにふさわしい事象は、
龍頭蛇尾の怪物のことでなく、
夫が自分の味方になったこと・・なのだと、
たまたま外から迷い込んできた風が教えてくれた。
さいきんでは、
気分の悪さを口実に女は公に姿を見せることを断っている、
身体の変化が、
いかに纏う衣服を工夫しようとも、
ごまかせなくなったからだ。
夫はついに決心したと言った。
彼女は、
自分の夫を、
彼女という代名詞を使って描写しなければならないのは、
何とも慣れないことだが、
慣れないといっても、女が体験した夫のうち、
1人は異性で、1人は同性。
ゆえに、半分は同性なのだ。
よって珍しいとはいえない、ともいえる。
何処かの王国の宮廷でピーチクパーチクと囀っている小鳥たちのように、
言葉遊びをしている状況ではなかった。
彼女は、重い決断をあたかもその日の夕食に、鴨を並べるのか、それとも鳩なのか、
その程度の決定事項くらいの扱い言いようで、
戦の重要案件を決めてしまうという。
ある重臣の言葉を思い出した。
鴨や鳩には食卓に乗せられる価値があるが、
小鳥にはただ無駄に啼き続ける有様に耳を傷める価値しかない。
女はそうなってはいけなかった、お腹の器のためにも。
せめて、夫にとって鴨や鳩にならねばならなかった。
料理の例として、
魚介類ではなく、鳥類を挙げている自分に女は驚いた。
宗主国は、魚介類が主食だった。
幼いころからその地で育った女は、
帰国してからも、肉よりは魚を欲した。
しかし夫を得て、異民族の総べる地に足を踏み入れてみれば、
肉を欲していた。
それは器を用意すると女はそうなるのか?
それとも夫への愛のせいか?
宗主国においても、
肉を好む夫人がいなかったわけでもないが、
そういう人たちが器を宿していたのか、
少女時代を振り返ってみたが、
脳裏に浮かんだのは、
アーチを多用した巨大な石の構築物や、
あまりにもありありとしていて、
人の生気すら感じさせる彫像の数々にすぎなかった。
それは女にとっていくら壮大で美しくてもしょうせんは過去にすぎず、
これから立ち向かうべき未来ではない。
それらの中に答えが見つけられるはずもない。
案の定、
なかなか自分が納得できる答えを用意できなかった。
それを求める先はやはり・・・
女は横になっている夫の顔に視線を持って行った。
それよりも先に彼女の手は自分の腹を摑んでいた。
不思議とまったく防御の姿勢を取らない自分に驚いていた。
自分はやはり真実、このひとを夫と認めているのだ。
彼女は一言。
「余の子」
その言葉が女の涙腺を脆くさせるには、
十分すぎるほどの、
感情熱量を含んでいた。
畳み掛けられた、
次の言葉はもっと酷だった。
「そなたが泣く姿をはじめてみた。いれまではずっと心だけで涙を流していたのだろう?それでは身が持たぬ」
思わず慟哭しそうになったのを、
夫が止めてくれた。
ベールの向こうでは奴隷が近侍している。
彼女は女の気持ちを受け止めてくれた。
しんじつに夫婦になろうと、
無言のメッセージがこの抱擁だった。
この瞬間、
器に魂が宿った。
この子の父親は誰でもない。
異民族の王女であり、
自分の夫なのだと、
ベールを通じて、
国中、
いや、宗主国を含めたすべての世界に伝えたくなった。