神託
欲しかったのは神々の保証だったのか?
それを人は神託と呼ぶ。
女は、
針金のように鋭利な五本の指に、
自らの手首を摑まれて、
それだけでなく、
ねじ上げられている。
しかし臆することなく。
それ睨みつけている。
それは五本、それぞれが独立して動いており、
まちがっても連動しているとは思えなかった。
絶体絶命の状態ばかりが、
彼女を動揺させているわけではない。
割合からすれば、それはたいしたことではないと自覚している。
彼女を脅迫している本質的な問題はべつにある。
女は時間を元に戻してほしいと、
神々に願っている。
だが、
まちがっても、
そんな願いごとが受け止められるとは、
夢にも思っていなかった
そういう願いを抱くこと自体が瀆神に他ならない。
だがあえてその罪をかぶりたいと希望した。
まさか、お腹の子にまで、
へその緒を通じて罪が伝わることはないだろう。
自分が先ほど、言ったことを忘れたかった。
なかったことにして欲しかった。
自分は瘴気にばかり気を取られて、
徹底した、
視覚情報の徴集を怠っていた。
今の今まで自分は一体何を見ていたというのか。
その声を聴くまでは、
結婚を申し込む対象が女だったなどと、
夢想だにしなかった。
魂には性別がない、というのは聖職者の教えるところである。
瘴気とは、
青い血の根源だが、
それは魂に他ならない。
賤民、奴隷は瘴気を発さない。
それらが魂を持たない。
そのことを裏付けている。
それは、女が所属する民族だけでなく、宗主国、その他の民族が培ってきた神話に共通する項目である。
違う肌の色、髪の色、違う装束、そういった連中がばたりと砂漠の真ん中で出会ったとき、互いが人間であることを、少なくとも、話の通じる相手であることを証明するために、半ば儀式としてある儀式を行ったものだ。すなわち、身体に傷をつけて青い血を迸らせてみせる、という実に簡単なものだ。
さて、
女はただ瘴気だけに意識を集中しすぎた。
そのせいで、
目に見えるものを感知そこねた。
自らの手首に彼女の…
未だに、そう呼ぶことを憚られるが、使わざるを得ない。
自分のなかに彼女の指が突き刺さってくる。
肉を押し潰して、
青い血が滴る。
それを視ると、
加害者は満足そうに笑った。
いや、客観的にみれば彼女の行動は正当防衛に属する。
そんなことを悠長に考えている場合ではない。
すでに肉は、
一部が潰されつくして、白い骨が露出しはじめていた。
それには青い血管が走っている。
手首に走る激痛を忘れて、
自分の身体にはなんと美しい血と血管が走っているのかと、
思わず、破壊されていく我が身体に惚れつつ、感じ入っていた。
命の、
それも自分だけでなく、まだ生まれぬ我が子の命もかかっている。
日の目を見ぬうちに滅び去るというのか?
加害者は、
そんな女に何やら話しかけてくる。
もはや、外の世界に聴覚神経を伸ばす余裕はすでにないはずだった。
だが、意外と彼女の声は美しかった。
外形的な造形も、
女が属する民族に限らず、
広く、美として受け止められるだけのものを持っていた。
加害者を、
女は直視できなかった。
あまりにもまぶしかった。
先ほどまでの形容は、
地中深くに落ち込んでいくことを防ぐために、
自分に対するごまかしにすぎなかった。
まちがっても、加害者を美しいとは思いたくなかったのだ。
この手首に走っているはずの激痛を感じないのは、
加害者の美しさに見とれているせいではない。
結婚を申し込んだ相手が、
女だったという事実から目を背けたいだけなのだ。
だが、
そう言う言葉に自分を納得させるだけの、
説得力は備わっていない。
それはわかっている。
わかってはいるが・・。
加害者が何を言っているのか、
痴呆状態にあっても、大方、想像できる。
自分を男と見間違えたのは、とんでもない侮辱である。
だが、人間を奴隷にするほど自分たちは腐った民族ではない。
できることならば、奴隷にしてやりたいが、
温情によって、
苦しめて、苦しめて、
太陽が10回は昇って、没する・・
その間は生かしておいて、
自分が犯した罪を実感させる、
その後に、
死という栄誉を与える、
そのくらいのことを言っているのだろう。
しかし、
事実は違った。
その人物は、こう言ったのだ。
「私は、そなたの申し入れを受け入れ、妻として迎え入れる」
一体、何を言っているのだろう?
確かに、加害者が使っている言語は、
彼我において共通に使える唯一の言語、
それは宗主国における公用語だが、
ケントゥリア語のはずだった。
文法か、
あるいは、
語義が変わったとでもいうのだろうか?
女は、
その言葉を理解することを拒絶した。
理性が許さなかった。
だから、加害者を男に、
意識の上で変ずることによって、
強制的に自分を納得させることにした。
女は言った。
「私をこんなにキズモノにして、よくもそんなことが言えるわね」
加害者は苦笑しながら言った。
「何のことを言っているのか理解しかねるが、手首を視てみるがいい。出血どころか、かすり傷すらできていない」
女は加害者の言う通りにしてみた。
すると、
その人物の言う通りに、真っ白なままだった。
見間違えだったか、
唖然として、
自分が立っている場所すらわからなくなった。
その人物は嘲笑うような顔をして言った。
「そなたは魔法の使い手だろう。その名前はこちらまで響いていた。無意識のうちに自分に魔法をかけていたのだ。やっと気付いたのか?」
自分に対してまやかしをかけていた。
加害者の言う通りだとすれば、
きっと、
結婚を申し込んだ相手が同性だった。
そのショックを和らげるための処置だったのだろう。
加害者は、次のような言葉を吐くことによって、
女が自殺することを防がねばならなかった。
「お腹の中に魂を受け入れる体を用意しているのだろう?それを破壊するのか?私はそなたの身体になってやろうというのだ。そこに魂を注げばいいではないか」
そう言って、
女とは思えない、
竜騎士に特有のごつい手のひらを差し出してきた。