敵中に活を求める。
その瞬間、世界はいきなり蒼くなったと思う。
女は奴隷と一緒になって、故国から逃亡を図っていた。
しかしそれは事実誤認と言わざるを得ない。
正確にいえば、奴隷のなかに潜り込んだと言うべきだろう。
これはいやいややっているので、けっして望んだことではない。
だれが、腐肉に塗れて陽気な歌を歌っていられようか。
そうでない選択肢もあったが、
そうしていれば、きっと、彼女の身体は風穴が開いて、青い血に塗れていたことだろう。
奴隷―、
人間に似た生き物であり、二足歩行をするうえに、
言葉を解する。
神々であっても、両者をよく見間違えるという。
ここは神々のおわす下界ではない。
かつて戦場だった血塗られた大地には、
本来ならば奴隷しか残っていないはずだった。
人間は殺すのが礼儀。
逆に戦って負かしておきながら生かしておくのは、
女が所属する民族においては礼儀に大いに反する。
奴隷は焼いて食うなり、煮て食うなり、勝者の自由。
ここには本物の人間はふたりしかいない。
女と子供だ。
そうはいっても、
その子供は彼女と寄り添っているわけでも、硬く手をつなぎ合っているわけでもない。
何といってもその子はまだ地上に降り立っていない。
女の腹の中にいるのだ。
まだ生まれていない。
子宮の胎内で屯しているのだから、
肉体同士は、体温を交換しあって、
寄り添っている、とはいえるかもしれないが、
魂はまだ天上にあって下界を臨んでいるのだろう。
だがその子供は、彼女が属する民族にとって忌避すべき存在だった。
そんな言い方は遠回しすぎる。
端的にいえば、排除したいと望んでいた。
その民族が使う暦と、彼らの宗主民族が使う暦が合致するある年に生まれし子供は、その宗主国に叛逆する王になるという伝説があった。それを排除するために、10代前の王が
はじめた風習だと言う。
女が気に入らなかったのは、その宗主国が強制したわけでもないのに、
自分たちの先祖から言い出したことだ。
確かに世界の秩序というものを、
神々から承っている世界帝国ではあるが・・・。
そこまで卑屈になる必要性が何処にあるというのだ?
彼らや彼女らは負かした相手をこともあろうに殺さないという。
あるいは敗北を喫して、生かされたとしても、
その後の待遇にもよるが屈辱を感じないという。
まったく女の理解を超える。
理解できない相手だが、
たしかに世界を支配する技量には多民族を抜きんでている。
世界中に道を巡らせ、
それを戦争のためにも、
そして交易のためにも、
大いに利用する。
宗主国の外交政策は天才的であって、
誰もが籠絡されてしまう。
「分割して支配せよ」
それが宗主国のやり口。
民族によって待遇を使い分けるから、
簡単に大同団結ができない。
誰かが裏切るだろうと、疑心暗鬼に駆られてしまえば、
すべては宗主国の思うつぼ。
みなが宗主国に膝を屈するのを女は歯噛みしてみていた。
何よりも我慢できないのは、自分もそれに倣うしかなかったことだ。
だからといってそこまでする必要があるのか?
宗主国さまに害をなす子供が生まれました。
あなたさまへの忠誠のしるしに、
あなたさまの目の前で殺して進ぜます。
何とも情けない限りだ。
そのうえ、
派遣されてくる宗主国の使者とやらは、
いかにも有難迷惑といった顔を隠さない。
大方、出世コースから落ちた連中で、
元老院議員になるなど、
夢のまた夢という連中だろう。
当の元老院議員と文通をしていた女は内情をよく知っていた。
それもそうだ。
自分が派遣されることを考えたら、とうぜん、御免蒙りたい。
こんな辺境に派遣されて、
だれが、
無辜の赤ん坊が無体に殺される場面を見たいものか?
元老院議員とつながっていることには事情がある。
幼いころに人質として宗主国で育つことを余儀なくされた女だが、こと、その下らない風習については自由でいられた。
帰国後も深く交わることがあって、何度か友人としてやりとりをしたが、そんな風習を彼らはばかばかしいと言い捨てたものだ。
だから決意したわけでもない。
あくまでも女の考えで実行したのだ。
彼女が属する民族は、交戦状態にあった。
いま、彼女をこのような状態、
すなわち、奴隷とともに鎖でつながれているという、じつに、屈辱的な状態、それは彼女自身が望んだこととはいえ、体内に青い血を巡らせる人間としては耐えがたいことであった。お腹の子にも障りがあるように思えた。
しかし今はそのようなことを嘆いてはいられない。
お腹の子と自尊心がかかっている。
両者は彼女のなかで渾然一体となって、
彼女に耐えろと命令してくる。
このような鎖などいつでも破壊できる。
魔法の使い手として、名を馳せた彼女だった。
想像のなかでは、
このような姿勢を強制される自身を想像していた。
だが、じっさいにこのような状況に堕とされると、
簡単に耐えられるものではない。
救いは幼い娘にまで鎖が打たれないことだが・・・
いま、彼女は娘と言った。
もちろん、心のなかで呟いた言葉であって、じっさいに発語したわけではない。
女に未来を読む才能はなかったはずだが、
竜騎士、魔法の使い手、治療属性、老女と・・・
その他にもいろいろと枝分かれをするが、
人間の、
全ての能力の源泉は、青い血に由来する。
だから、企図せず、このようなことはまれに起こる。
女はすべての直観を神々のお告げとして信じたい気持ちだった。
自分と赤子は救われるという声が聴こえたような気がしたことあるからだ。
戦場に身を躍らせた瞬間に聴こえた。
そのときのことを思い出したとたんに、
胸が震えて、思わず瘴気を発するところだった。
いまは、身を控えねばならぬ。
瘴気を抑えても、
自分を見つけ出せる貴族がここにもいるはず。
その人物が姿をみせた途端に求婚するつもりだった。
敵国の貴族に求婚するとは、
彼女が属する共同体から一線も、二線も画する特性を持ち合わせていたとはいえ、
さすがに裏切り以外のなにものでないことはあまりにも明確すぎた。
だが孕んだ肉体に魂を宿させるためには、
手段を選んではいられなかった。
くどいようだが、宗主国に身体を売ることは、
先祖の愚行を繰り返すようで気が引けたのである。
宗主国にとってみれば、
彼我ともに、
同盟国であって、
隣り合う二者が争うことは常に頭痛の種であった。
彼我ともに、
さらに東に位置する強大な敵に対して有効な防波堤であって、
できれば仲良くしてもらいたかったのである。
もっとも威儀を示すためには、
そんなことはおくびにも出さないが、
賢い人間にはそれが見抜けないはずがなかった。
洞察できないはずがなかった。
女はそれをわかっていて、
今回の挙に出た。
自分の行為が宗主国に不快感を与えることはあるまいと。
先祖の行為を愚だと決めつけておきながら、
この言。
彼女に政治的な素質が備わっていた証拠である。
だが、
どれほどやり口が理性的であろうとも、
核になる動機は、
感情的どころか、
感情そのものでしかなかった。
神々によって与えられた肉体に魂を迎えること、
ただそれだけに絞られている。
いったい、
自分の娘はどんな顔をして、
天上で自分のことを見下ろしているのだろう?
それを考えただけで、
いま、自分が人間扱いされていることを、
自分よりもはるかに劣る相手に膝を屈していることも、
笑って、ではないが・・
何とか凌ぐことができた。
そもそも感情を制御しないと、
瘴気が漏れてしまう。
この場を管理している連中などに自分が纏っているベールを外させるわけにはいかない。
それこそ、
沽券に関わる。
女は、身をひそめるだけでなく、呼吸も控える。
精神的な存在である魂が吐く息が瘴気だが、
肉体が行う呼吸と連動する。
捕らえた奴隷たちを管理する兵士たちは、
自分たちをはるかに超える存在が、
自分たちの膝下にいるとは想像すらできないだろう。
そう思うと、情けないどころか諧謔の気分すら起こってくる。
余裕が出来てきたところで、
彼らをからかってやりたくなった。
そう思っているところに、
ちょうど、ある兵士の脛当てが目に入ったときのことだ。
それらを、
物理的な手段に訴えずに外すなり、罅を入れるなり…さすがにそこまでは、瘴気を彼らに感じさせずに悪戯を実行するのは難しかろうが、
そういうことをしようとした瞬間のことだ。
強烈な瘴気の根源を感じて、
女は思わず呼吸を止めた。
幼いときに受けた修養を思い出す。
瘴気を呼吸と連動させることはすでに記したとおりだが、
その出発点は呼吸を止めることと、
瘴気の停止をイコールで結ぶことだった。
幾つになっても、
そのときのことが思い出される。
自分が教示する、
相手の年齢の老若や、
身分の高さのことなど、一顧だにしない、
鉄のような意思の持ち主だった。
危機に瀕すればするほど、状況には無関係なことが脳裏に浮かんでくる。
鋭い瘴気の根源を知ろうとした。
これは、
いわば、冷たい戦いだった。
相手が竜騎士なのか、魔法の使い手なのかわからないが、
こちらは瘴気をできるだけ消すということでしか、
相手に攻撃を仕掛けることができない。
動いた方が負けだというのは、
勝負でよく言われることだが、
その人物を相手のときに限っていえば、
何も相手を殺したり、無抵抗状態にまで追い込んだりすることを意味するわけではない。
ただ、ただ、こちらの婚姻の申し込みを呑ませるだけのことだ。
しかし、
女は焦っていたのか、
当該民族の結婚制度について詳細を知らなかった。
ただ、ただ、この周辺の部族社会としてはありがちな、
一夫多妻制を想定、いや、そこまでもしていなかった、とのちから述懐する。
ただ、ただ、あらゆる人間の集団に婚姻という制度は見受けられる。
そのことだけが脳裏にあった。
だから、それを全うすればすべてはうまくいくと、
自分と我が子は助けられるという読みはあった。
そして、
先に動いた方が敗北という、
一種の常識も、
埒外に置くべきだろう。
何の埒外か?
言うまでもなく 女が、
与えられた状況にたいしてどう対処するのか、
その選択肢として、考えるべきではないということか。
圧倒的にこちらが不利な時、
相手の虚をつくという意味で、
不意打ちということはありうる。
一種のゲリラ戦といえるだろう。
さしあたって、
女が相手にすべきは当該人物ではなかった。
あくまでも自分だった。
自分に対して思考停止を命じなければならない。
自分を騙せないのに、どうして他者を騙せるだろうか?
だが竜騎士のように相手の首めがけて手刀を繰り出すわけではない。
相手を殺すことが目的ではないこともあるが、
そもそも、女は魔法の使い手だった。
だから所作によって、相手に見抜かれることは免れる。
魔法で相手の攻撃を黙らせてしまえばいいわけだから。
だが発動させた瞬間に、
相手に見抜かれてしまうだろう。
だがそれでいい。
見抜かれた瞬間にはすでに相手の攻撃力を限りなくゼロに封じている。
自信はまったくない。
だがこちらは相手を殺す必要性がない。
ただその一点だけに自分に有利に働く。
そこに賭けた。
女は、しかし、
べつのことに意識を向けるべきだった。
頭から相手が異性であると勝手に決めつけていた。
他の可能性に思いをはせるべきではなかったか。