危ない
セミの鳴く声が聞こえて、私は目を開いた。汗ではりついた服が気持ち悪い。日めくりカレンダーを見れば、七月の最後を示していた。そのページを破って今日の日付に変える。そこから数枚めくれば、「夏祭り」という字が見えた。
夏祭り。今の私には嬉しくない言葉。見るだけで気分が沈んでいく。
「夏祭り、達己くんと行くの?」
Aさんに恐る恐る声をかけられて、私は平静を装って「もちろん」と返した。カレンダーから手を離し、私は冷蔵庫の方に向かう。口のなかがカラカラで気持ちが悪い。暑さのせいだと言い聞かせた。
彼のデートを目撃してから早二か月が過ぎた。相変わらず私と達己は付き合っているし、デートだってしている。夏祭りの約束だって取り付けた。だけど、あの日一緒にいた彼女のことを聞くことはできずにいる。
もちろん、彼女とどういう関係なのかはずっと気になっている。でも、聞いてしまったら最後、私は彼と別れなくてはならなくなるような気がしているのだ。私は達己と別れたくない。たとえ、達己が彼女のことを好きだとしても。今の関係が嘘で塗り固められたものだとしても。
今日は午後から達己が家に来る約束をしている。夏祭りの集合時間や場所を決めるためだ。珍しく、彼から「明日会おう」という電話をもらった。その時の重い声の調子は、まだ覚えている。
(大丈夫、心配することなんて何もない)
私は深呼吸をしてから外を見た。暗い雲が街を覆っていて、今にも雨が降りそうだった。
約束の時間の少し前にインターホンが鳴った。いつも通り。でもいつもと違うのは、こんなに待たされていたのに苛つきもせずにひたすら怯えている私の気持ち。
私はゆっくり立ち上がった。誰なのかは分かっている。それはAさんも同じだったようだ。
「お、来たんだ」
Aさんは驚いたように声をあげた。彼はいつも通り居間をさまよっている。対照的に私の心は沈んだままだ。どうにかその心を奮い立たせて、私は玄関まで歩いた。ドアを開ける前に笑みをつくって、私は彼を出迎える。
「いらっしゃい」
私の笑顔に小さく微笑みを返して、彼は「おじゃまします」と言った。持っていた紺色の傘は濡れていた。「雨、もう降ってるんだね」と言えば、達己は「途中から降りだしたんだ、傘持ってきて正解だったな」と答えた。
傘立てに傘を入れて、彼は家に上がる。彼が家に来るのはこれが二回目だ。引っ越しの荷物運び以降、彼は全く来ようとしなかった。「アルバイトだから」「サークルがあるから」という理由が常だった。
私はギュッと服を掴んだ。何かを掴まなければ、不安で手が震えてしまいそうだった。
私は彼に背を向けて居間に戻る。「お茶でいいよね」と二人分のグラスを棚から出すと、「うん、ありがとう」と達己が居間に入ってきた。
お茶を入れている間、Aさんも含めて誰も言葉を発さなかった。こんなに重苦しい二人の時間は初めてだ。達己の顔を見れば、彼は深刻そうな面持ちで手元を見つめている。不安ばかりが胸に膨らんでいった。どうか、達己が離れていきませんように。私はグラスを握りしめて、ちゃぶ台に運んだ。
「達己から言ってくるなんて、珍しいこともあるものね。早めに決めちゃって、あとの時間をゆっくり過ごすのもいいかも」
グラスを渡しながら達己の顔を見る。私の言葉に彼は目を泳がせた。それから口を動かす。外の雨の音でかき消されてしまうほど、小さな声だった。それを拾うことはできなかったが、口の動きで何を言ったのかはわかった。
『ごめん』
この表情で、このタイミングで彼が私に謝るなんて、理由は一つしか浮かばなかった。
嫌よ。そんなの聞きたくない。
私は聞こえていない振りをして、「あ、お茶菓子持ってくるから、ちょっと待ってて」と彼から離れた。
そんなことをして引き延ばしたって結果は変わらないのに、私は何をしているんだろう。
グラスの入っている棚の下からお茶菓子を取り出して、中身を小さな器にうつした。一度だけ深呼吸をしてから、私は達己のもとに戻る。
達己の目の前に座れば、彼の静かな目がよく見えた。何もいわないで、私はそれを聞きたくないの。嫌な汗が背中を流れる。それを隠すように私は軽い調子で話しかけた。
「お祭り、七時からよね? そしたら待ち合わせは六時半くらいかしら」
私は近くに置いていた鞄の中からスケジュール帳とペンケースを取り出した。ペンケースを開ければ、シャーペンやボールペンに紛れて、銀色に光るものが見えた。一瞬、周囲の音も景色も遠ざかった。
すぐにそれから目を逸らして、開けたままのペンケースをちゃぶ台の上に載せる。カチカチとシャーペンの頭を押して芯を出し、スケジュール帳の書く予定もないページにあてがった。ひたすら、彼の顔を見ないようにしていた。
しかし、どんなに逃げようとしても、現実は私を見逃してはくれなかった。
目の前から小さいけどはっきりとした声が聞こえてきたのだ。
「俺、今度の夏祭り、まなみとは行かない」
ごめん。
雨は、彼の二度目の謝罪をかき消してはくれなかった。ゆっくりと顔を上げると真剣なまなざしが私を射た。現実から逃れられなかったということはすぐにわかった。
私は無理やり笑顔を浮かべた。「どうして?」と発した声は、思った以上に震えていた。達己はほんの少し目を伏せて、私にギリギリ届くような声で呟く。
「夏祭りが来る前に、俺たち、別れるからだよ」
そんなの知ってる。脳裏に、あの女性といたときの達己の優しい笑顔がよみがえった。あんな笑顔を見せるような相手に、恋心がないなんて思えない。
でも、私はずっとあなただけを思い続けてきたの。
涙がにじんできて、視界がぼやける。目の前にいる達己の顔がはっきりと見えない。それなのに、彼が今どんな表情をしているのか手に取るように分かる。
困ったような、悲しそうな、複雑な表情。そんな顔するなら、私を悲しませるようなこと言わなければいいのに。
私は泣くのを寸前で耐えた。泣くよりも彼に思い止まらせるのが先決だ。
精一杯悲しみが伝わるように、声の大きさや細さに気を付けて喋る。
「どうして別れないといけないの? 私、こんなにも達己のことが好きなのに」
だが彼は思い止まるどころか力なく首を振って私の言葉を否定した。
「まなみは俺のことが好きなんかじゃない」
「好きよ」
「違うんだよ!」
達己の大きな声に、私の口からは何も出てこなくなってしまった。
私は初めて彼が怒鳴ったのを見た。彼が怒ることなんて今までもこれからもないものだと思っていた。私のわがままだって、いつも笑顔で聞いてくれた人だったから。
流れるのをこらえていた涙が一気に溢れ出した。
泣き出した私を見て、彼は眉を下げた。だけど彼は謝らなかった。
「私はずっと達己だけが好きよ。なのになんでそんなこと言うの」
私は手で涙をぬぐった。一瞬だけはっきりした視界に、Aさんが映り込んできた。私と目が合うと、気まずそうに顔をそらす。また涙があふれてきた。
達己は私の質問に丁寧に耳を傾け、はっきりした声音で答える。ほんの少し、震えているように聞こえたのは、私の気のせいだろうか。
「話題なんかないのに毎日メールして、待ち合わせ時間ちょうどに行っても嫌な顔して……。そんなの、本来の恋人の在り方じゃないだろ。……そんな自分勝手な人と、もう俺は付き合えないよ」
彼の声には、疲れがにじみ出ていた。そういえば以前「彼、耐えきれなくなるよ」とAさんに忠告された。Aさんの言う通り、本当に彼は耐えられなくなってしまったようだ。
Aさんにも達己にも言われているのだからこれは私の責任も大きいのだろう。だが、私が一方的に悪いんだと言いたげな言葉をきっかけに、私の頭のなかは真っ白になっていく。考えることを放棄した私の頭は、勝手に私の口を動かした。
「全部私が悪いみたいに言ってるけど、あなただって悪いじゃない。先に私から別の人に乗り換えたのは達己よ?」
私の言葉に達己の表情がこわばった。なんで知っているんだと言いたげに、私を見つめる。怯えた色が浮かんでいたことなんて、私は気にならなかった。
「前に二人でお店にいるのを見たのよ。長くて綺麗な黒髪で、私なんかよりずっと可愛い人よね? あちらは私とあなたが付き合っていること、知っているのかしら」
私の言葉に達己は申し訳なさそうな顔をして、「ずっとまなみのことを相談していた相手だからね」と呟いた。
「あの子はまなみのことで疲れ切っていた俺を慰めてくれたんだ。だから、俺が彼女と付き合えたのはまなみのおかげとも言えるな」
小さく浮かんだ彼の笑顔に、私は心臓をえぐられる思いだった。その話だと私はまるでかませ犬じゃないか。私はあなたと一緒にいたい一心だったのに、こんな裏切り方をするなんて。
達己はゆっくり立ち上がって、私のことを横から抱きしめた。感謝と謝罪が私の頭の後ろから聞こえてきた。優しいぬくもりが、ただわずらわしかった。
視界の隅で、目を丸くするAさんが見えた。まるでコマ送りの映像のように、あたりの動きがゆっくりに見える。私はいつの間にかペンケースから鋏を取り出していた。
これを振り下ろせば、この人は動けなくなる。動けなくなればこっちのものだ。この温かさがあるから、彼と私は別れなければならないのだ。それさえなくなれば、彼の移り変わった心なんて関係なしに、私たちはずっと一緒にいられる。
銀色の刃が彼の背中に滑り込む直前、ゆっくりとした世界の中に鋭い声が入ってきた。
「まなみちゃん!」
目の前に見覚えのある顔が現れた。Aさんだ。霊体だから私の手と彼の背中の間に割って入れたのだ。
この人は私の恋人じゃない。
そう思った瞬間、私の手から鋏は落ちていった。からん、という音がして、私の世界は元の速さに戻る。
私を止めた彼は、私の顔を見てため息をついた。するりと私と彼の間から抜け出して、離れていく。
達己が私から離れたのはその直後だった。ゆっくりと離れていくと、彼の目が足元に転がっていた鋏をとらえる。何をしようとしたのかはすぐにわかったはずだ。
そっと目を伏せて彼は鋏をちゃぶ台に置いた。きっと今から彼は私を見るだろう。その瞳に浮かぶのは軽蔑だろうか。それとも恐怖だろうか。
黙って彼を見ていると、彼は私に目をやった。そこに浮かんでいるのは軽蔑でも恐怖でもなく、憐れみだった。
「いつか、おまえを受け入れてくれる人も出てくるはずだから。俺にはそれができなかったってだけだから」
うなだれた私の肩を達己は優しくたたいた。彼は謝らなかった。ただ、別れの挨拶だけをして立ち上がる。私は追いかけられなかった。その背中を見つめることしか、私にはできなかった。
続く。