「バットと不良」
あなたの大切な物はいつ失くしたのですか
「バットと不良」
時は晩秋、晴れた昼下がりの午後。人の背丈ほどのすすきのが無造作に生えた、人気のない河川敷の散歩道を、白い長髪に薄汚れた黒いジャケット、そしてジーンズというラフな格好をした男が一人、川の流れに沿って歩いています。
男は歩きながら、視線の先を河川敷の向こうに見える街の方に向けていると、突然、男の心の中に、
「おいっ、そこの白髪野郎。ちょっと待てや」
自分を呼び止める、やさぐれた、大きな声が聞こえてきました。
すぐさま男は振り返ると、声の主である人の姿を探しますが、辺りには人子一人おりません。
「なんだ、俺の空耳か」
そう言い、男は再び歩きだしますが、
「ちょっ、どこ行くんだよ。待てよっ!」
またしても男の心の中には自分呼び止めようとする、同じ主の声が聞こえたので、男はもう一度じっくり辺りを見渡すと、男から数メートル離れたすすきのの中に一本の、黒い色をした金属バットが落ちているのを発見しました。
そして男は、両手ですすきのをかき分けながら落ちているバットに近づくと、
「俺を呼んだのは、バットお前か」
心の中から声をかけてみました。
すると、
「やっと俺様の言葉を聞ける奴が現れたか。待ちわびていたぜ、この時をよお」
バット嬉しそうな声で、男の心の中にそう答え、それを聞いた男は、
「それで。俺を呼んだ理由はなんだ」
心の中からバットに対して質問しますが、逆にバットの方もからも、
「それよりもお前の名前を教えろ」
質問を返されてしまい、
「ガタロだが」
「ガタロ? 変な名前だな」
男の名を聞いたバットは、思わず吹き出したかのような声で、男の心の中へ「ぷっ」、と失笑してしまいました。
「お前なあ。名前の無い物にだけは、言われたくはねえよ」
「ああん、俺様に名前がないだとっ。俺様の名前はなぁ、ミズット、という野球ブランドのクレワング、という正式な商品名がついているんだぜ」
バットは堂々とした声で自分の名、曰く商品名を名乗ると、ガタロはどうでもいいような顔でバットとは逆の方向を見ながら、こう答えます。
「へー、よかったね。そのクレなんとかさん」
「てめー、何調子こいてるんだ。喧嘩売ってんのかコラッ」
バットは声のトーンを下げつつ声を張り上げ、ガタロを脅すような声で威嚇したのです。
そしてガタロは、バットの方に視線を戻し、むすっとした表情になったかと思うと、ダッシュしながら、右足でバットを思いっきり蹴っ飛ばし「ガツン」、と大きな音が河川敷に鳴り響いだのです。
ガタロに蹴られたバットはその衝撃で、すすきのの中から飛び出したかと思うと「バシャン」、と大きな水しぶきをあげて、川に落ちてしまいました。
ほんの一瞬の出来事でした。
「おっ、おい、いきなり何を——、ってその前に助けてくれえ、沈むうううう」
バットは川に落ちると自らの重量で川の中に沈んでいき、自分を蹴ったガタロに助けを求めるも、肝心のガタロはというと、
「痛ううううう。バットなんか思いっきり蹴るんじゃなかった」
バットを蹴った右足の甲を、痛そうにさすっていました。
「ははは、ざまあねえなおいっ。はっはっはぁ……ぐぷぷごぽぽぽぽぽ……たっ助けてくれごぽごぽごぽ」
それからバットは、どんどん川の中へと沈んでいきます。
「あーなんだって? 聞こえんなあ、クレなんとかさん」
「助けてごぽっごぽっくれ、助けてくれぐぷぷぷ。なんでも言うこと聞くからごぽぽぽさあ」
バットの水の中で足掻く声と助けを求める声の両方が、ガタロの心の中でうるさく鳴り響き続けると、さすがのガタロもその言葉を聞いている中に同情したのでしょうか、
「まったく。最初から下手にでればよいものを、強がって」
仕方がなさそうにジャケットを脱ぎ腕まくりをして川に手を突っ込むと、間一髪、バットを川からすくい上げたのでした。
「はぁはぁはぁ。あっ危うく川の底で一生を過ごす羽目になるところだったぜぇ……」
バットは息切れを起こしたかのような声で、ガタロの心の中に話すと、それに答えるかのようにガタロも、
「じゃあさお礼に、さっき助けてくれたらなんでも言うこと聞くと言ったから。俺のお願い聞いてもらえるか」
助けたお礼を、バットに要求したのです。
「はぁ。なんのことだ? 俺はそんな約束した覚えはないぞ」
バットはとぼけた声でそう返すと、ガタロは水滴と泥まみれのバットを掴み、
「お礼の内容はそうだなぁ、もう一回川に落とす——でも」
「すいませんでした」
もう一度川の底に沈むのはさすがに嫌だったのでしょう。バットは即答で、ガタロに謝ったのでした。
その後、ガタロはバットをすすきのの上に置くと、自分の濡れた両腕をジャケットの中にしまっていたハンカチで拭いていますと、
「ガタロ……。じゃなくて、ガタロの兄貴。おっ俺様も拭いてくれ。川の泥や水垢が付いた状態は嫌だからよお」
「やだよ、クレなんとかさん。お前の長い体を拭いていたらハンカチ一枚じゃ足りないだろ」
あらたまった口調で兄貴と呼び、自分を拭いてほしい、とお願いしてくるバットに対して、ガタロは冷たくあしらいますが、バットもあきらめずに、
「頼む。頼むよお。なんでもするからよお」
まるでプライドのかけらも微塵に感じられないような、情けない声でお願いすると、
「なんでもするか。じゃあ、もう一度川の底にでも落ちて——」
「兄貴っ、いやガタロ様。ご無礼なお願いをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
気がつけば、バットは最初にガタロと出会った時とは百八十度違う口調となり、様付けでガタロを呼んでいたのでした。
そんな、どこか情けなくもあるバットの声を聞いたガタロは、地面に落ちたバットを足で踏みつけ、「ぐりぐり」とこすりながら、こう言いったのです。
「しょうがないなあ。様付けで呼ばれたらいじるにもいじられねえなぁ、バット君」
「ううう」
こうして二人の上下関係がはっきりとすると、ガタロはバットから足を離し、ようやくのことで、なぜ自分を呼びとめたか、という本題へと切り込んでいくのでした
「それでだ。お前が俺に声をかけたのは、こうして一方的に踏みつけられるためではなかtったんだろう」
「ちっ、ちげー、……それは違いますガタロ様。俺様は決して、貴様に踏みつけられるような行為のために——、ではありませんね。そんな屈服的屈辱を受けるために貴方様をお呼びでしましたのではありませんからして——」
「バットよ。お前、その日本語めちゃくちゃだぞ。もう変な丁寧語でも、様付けで呼ばなくていいから、普通に喋ろ」
そういわれたバットは、すぐさま素の口調に戻ると、
「ふぅ、何年振りかに丁寧語話したらチョー疲れたわ」
バットは息のない、声のため息をガタロの心の中へ、もらしたのです。
「何年ぶりか以前に初めてだろ。人間と直で会話すること自体」
「物としゃべるアンタにそのツッコミは無しだぜ、ガタロよお」
「あっそ……」
ガタロは自分より格下のバットにツッコミを入れられたことが屈辱なのか、ふてくされた顔をしながらそっぽを向きました。
そして数十秒した後、再び視線をバットに戻し、
「いい加減このやりとりも飽きたから単刀直入に聞くが、そもそもなんでお前は俺を呼び止めたんだ」
今度こそ、バットがガタロを呼び止めた真意を聞くため質問すると、バットは怒りに満ちた強い口調でガタロの心の中にこう言いったのです。
「俺様は、俺様の元の持ち主を、俺様を使ってぶん殴ってほしいんだ」
「なんか俺様ばかりで分かりづらいが。つまりお前を使って、お前の持ち主をぶん殴ってほしいということなんだな」
「ああそうだ。思いっきり頼むぜ」
ガタロはバットのお願い聞いて、
「——はぁ!?」
バットの言った意味が、全くもって理解できません。
「ダメなのか?」
「ダメも何も犯罪だろそりゃあ。バットで人殴るなんて」
「だけど俺様の元持ち主は、俺様を使って人を殴ったんだぜ。それも、何人もよぉ」
バットは相も変わらず怒りに満ちた口調で、まるで自分が正しいかのようにガタロに話します。
「つまり、お前の持ち主はお前を喧嘩の武器にして使ったからその復讐に、と捉えていいのか」
「ああ、そうだぜ」
バットは自身が喧嘩の武器として使われたこと、それが原因で元の持ち主を殴りたいことを認めると、今までのすべての恨みの根源を知ってもらいたいためなのか、それともただうっぷんを愚痴として言葉でぶちまけたいのか、続いて自身の過去を語り始めると、ガタロは濡れた手を拭きながらなんとなく聞きます。
「俺様はなぁ、本来は野球のために作られたバットで、元の持ち主も俺様を野球の道具として買ってくれたんだ」
「へえ。それと今回の件、どう関係があるんだ?」
「まあ黙って聞けや。それでなあ、俺様は元の持ち主の野球の道具、いいや、腕となり一緒に毎日白球を追いかけたんだぜ。俺様と元の持ち主は、チーム内では四番を任され、ヒットやホームランを連発してなあ、そりゃあもうすごかったんだぜ、本当によお」
「へぇ。そりゃ、すごいね」
「まあ、そこまではよかったのだけどな。それからだ、問題は。その後俺様の元持ち主は、中学校に入った直後に交通事故にあっちまったんだよ。それで足や腕に大けがを負ってしまい、二度と野球のできない体、とまではいかないが長期間の休養を余儀なくされたんだぜ。しかもそのケガで学校も長期間休んだおかげか、学校では孤立して、ろくすっぽ勉強もしなくなってだな。そして気がつけば——」
「気がつけば?」
「学校にも行かなければ、野球もしない。それらの隙間を埋めるために、同じような隙間を持った、まあいわゆる学校サボって喧嘩万引きばかりやるような仲間と街で出会い、不良の道を歩み始めたんだ」
「ふーん」
「その間、俺様は持ち主が交通事故を起こして以来、ずっと部屋の片隅にぽつんと置かれたまま。俺様の存在は単なる部屋の飾り、だったてわけよ」
「ほぉほぉ」
「それでだ。そんなある日、突然元の持ち主は何かあったのか、部屋の片隅にいた埃まみれの俺を掴み、何年振りか外に連れて出したと思うとそこは——」
「ここって訳か」
「そう。元の持ち主は俺様を使って隣町のヤンキーと喧嘩したのさ。そして喧嘩していることが周りや警察にばれてしまい、元の持ち主は証拠隠滅に、とっさに俺様をここに捨てて逃亡した、という始末さ」
「ちなみに、それはいつの話なんだ?」
「あれから、もう一か月は経ったな。だけど俺様を本来の使い方とは全く暴力の手段に用い、挙句の果てに、こんな雑草ボーボーな所に置いていきやがって。ぜってー許せねえ」
「それはひどい話だな」
「だろう。だから俺様は元の持ち主に復讐したいんだよ。俺様をこんな風に暴力のために使ったのが許せねーから。
バットはガタロを呼び止めた理由をすべて話した上で、
「だからガタロ。俺様を使って元の持ち主を殴ってほしいんだ」
もう一度お願いしましたが、
「残念だけどそれはできないな」
ガタロの答えは変わりませんでした。
「なんでだよ。頼むよ。一生のお願いだ」
バットは、自分がこんなにも理不尽で不条理な自分の立場を理解してもらっても、拒否するガタロに、何度も心の底から頼み込むも、ガタロの答えは、
「だって、最初に言った通り、それをすれば俺は犯罪者になるし。それに——」
「それに、何だ?」
「俺がお前を使って元の持ち主を殴ったら、今度は俺を殴りたくなるだろう。元の持ち主と同じように。武器、いいや、凶器として使ったことにな」
「………………」
バットは、それ以上何も言えませんでした。自分の復讐したい気持ちが、いかに浅はかであったかを知ってしまったために。
すると突然、バットから一粒の水滴が流れ落ち、それに続くようにバットから流れる水滴は数を増していきます。
その水滴の正体は、
「あれ、急に雨なんか降ってきて。さっきまであんなに天気よかったのに」
突然降り始めた、大粒の雨でした。
「この雨ならお前の泥も綺麗さっぱり洗い流せるだろ」
「………………」
激しく降り始めた雨の音でかき消されているのか、それとも本当に何も言えないのでしょうか。ガタロの心の中には、バットの声が一切聞こえてきませんでした。
「まぁ、これ以上何も言えない。いいや聞こえねえのなら俺はもう去るぜ。ここに突っ立っていても雨に濡れて風邪ひくだけだから」
ガタロには雨の音しか聞こえません。
「あっ、それと俺は今日この街を去るつもりだったから。もう二度と会えないかもしれないけど」
「あばよ、バット」
ガタロはそう言い残し、河川敷を後にしました。
それからというもの。ガタロが去った街では、急に降り始めた激しい雨が長雨へと変わり、三日三晩降り続いたのです。
まるでバットの涙が降り注ぐかのように。