「鉛筆と少年」
あなたにとって大切な物はなんですか
「鉛筆と少年」
粉雪舞い散る冬の朝。とある街の商店街を、白く長い髪に黒いコートを着た、一人の男が歩いていました。
朝早くであるためなのか、シャッターはまだ、すべてがしまった状態で誰も人の通らない商店街を男は歩いていると、ふと彼の心の中にどこからともなく、
「お願い……誰か……僕を今すぐ……の元へ、誰か…………」
人を呼ぶ声がしてきたのです。
その声に反応した男は、声の出どころが下の方にあったのか床に目をやると、そこには傷だ
の芯がとても短い一本の鉛筆が落ちており、男は鉛筆に、
「お前、持ち主に捨てられたのか」
心の中でそう、鉛筆に話しかけたのでした。
すると、
「君、鉛筆の声が聞こえるの」
鉛筆は驚いた声で、男の心の中に言ったのです。
「そうだが」
「初めてだよ。僕の声を聞くことができる人間は」
鉛筆は自分の声を聞いてもらえたのか、嬉しそうな声で男の心の中に話しかけます。
「君の名前は」
「ガタロだけど」
「ガタロ君と言うんだ、いい名前だね。年齢は?」
「——二十四歳」
「そうなの? ガタロ君は白い髪をしているから、てっきりおじいさんかと思ったよ」
「よく言われるセリフだ」
鉛筆は「ガタロ」、と名乗った男に親しみを感じたのか、彼の心の中へさらにいろいろと聞いて来ますが、ガタロは冷静な面持ちで心の声を通して、鉛筆に本題を問いかけます。
「お前、鉛筆だからってガキのように興味津々でいろいろ聞いてくるのはいいが、最初お前は俺に誰かの元へ連れて行ってと言っていたよな」
「うん。そうだよ」
「その誰かとはいったい誰のことなんだ?」
ガタロの問いに対して鉛筆はこう答えました。
「僕を、僕を今すぐナユ君の元に返してほしいんだ」
「ナユ君とは鉛筆の持ち主のことか」
「はい」
「どうしてだ。お前はそのナユとかいう奴に捨てられた身なのだろう。それなのになぜ」
鉛筆の言う意味が分からずにそう聞くと、鉛筆は小さな声でその訳を語り始めます。
「僕が捨てられた理由は、ナユ君が本心から僕を要らないと思って捨てたんじゃなくて、いじめられたのが原因でここに捨てられたんだよ」
「それっていじめた奴が、お前を盗みここに捨てた、ということか?」
ガタロは鉛筆が捨てられた理由をそう判断しましたが鉛筆は、急に暗い声となり、
「それは違う。僕をここに捨てたのはいじめっ子でなくてナユ君本人なんだ」
持ち主によってここに捨てられたことを話しますと、それを聞いたガタロはすぐに、
「そういうことか。いじめた奴にそそのかされて、ナユはお前をここに捨てたんだな」
元の持ち主であるナユによって捨てられた、本当の意味に気づいたのです。
「今から1週間前、ナユ君が展覧会に出展する絵を描いていた時、偶然ナユ君の絵を見たクラスメートがナユ君の絵をバカにしたんだ。ナユの描く絵は恥ずかしい、ナユの絵はお子様の書くようなのだから、もう絵を描くことなんかやめてしまえって」
「いかにもガキらしいエピソードだな。言った方も同じガキなのに」
ガタロは鼻で笑うと、
「ナユ君はまだ小学五年生だからね。クラスメートも同じ小五」
鉛筆も同じような笑い声をあげました。
「だけど、たったそれだけの理由で絵をやめる、なんてことはないだろう」
ガタロは鉛筆の気持ちを見透かしたように聞くと、鉛筆は悲しそうな口調で、
「うん」
と一言。続けてその訳を語り始めます。
「実は、ナユ君の母親はとても厳しい人でね。ナユ君が家でこっそり絵を描こうとすると、頻繁に僕を取り上げては窓の外から僕を投げ捨てるんだ。それから何時間かした後に、ナユ君はこっそり母の目を盗んでは僕を拾いに来てこう言うんだ。いつもごめんね——と」
「それでお前の芯は短いうえにボロボロって訳か」
ガタロが鉛筆の話を聞いた後、鉛筆に目をやると、鉛筆には小さい凹みが何か所もあることに気づき、
「ナユ君は、僕のことをまるで自分の体の一部のように大事に使ってくれていた。誰からなんと言われようとも僕を使い、そして絵を描き続けてきたんだ。だけど昨日、ついに——」
「友達にいじめられて、親にもいじめられて。大人の俺でもナユの立場なら吹っ切れるな」
ガタロはなぜこの鉛筆がここに落ちていたのか、その真意を知ることができたのです。
「だけど吹っ切れた直後のナユの元へお前を戻したところで、また捨てられるのが目に見えているなら、もう少し間を空けてナユが落ち着いてからだとダメなのか」
周りの環境が原因とはいえ、自分の意思で捨てたナユの元へすぐにでも戻りたい、鉛筆の心の中までは分かららずにガタロはそう聞くと、鉛筆はその事についても語り始めます。
「ナユ君が学校の展覧会に絵を出すことは、さっき僕が話したから知っているよね」
「ああ、そうだが」
「その展覧会の締め切りは3日後なんだ」
「それはずいぶんと絶望的な展開ならぬ展覧会(てん(らん)かい)だな、はははっ」
「寒いよガタロ君。君はまだ二十代でしょう……」
「すまん……」
ガタロのダジャレで、一瞬場の空気に冷たい風が吹くも、
「だから今すぐにでも、僕はナユ君の元に戻る必要があるんだ。あの絵は僕とナユ君が一緒になって作っている作品。僕以外の鉛筆には絶対にあの絵は完成できないから」
そして、鉛筆は最後に精一杯の大きな声で、ガタロにこう、お願いをするのでした。
「だからお願い。僕を今すぐナユ君の元へ連れて行って」
それを聞いたガタロは、頷きながらこう言いました。
「分かったよ。お前をナユの元へ連れていけばいいんだろう。俺はこの街に来たのは今日が初めてだから案内はお前にまかせるぜ」
「ほ、本当に良いの!? ガタロ君」
信じられないような声で驚くと、
「いいよ。その変わりに一つだけ、お願いがあるのだが」
「僕は人間みたいになんでもできるわけではないけど、僕にできることならなんでも」
「お前は鉛筆だから飯の味なんぞ知らんだろうが、この街で一番有名な飯屋、教えろよ」
ガタロは食事などしたこともない鉛筆に無茶な要求をしますが、鉛筆は堂々とした声でこう答えました。
「それならまかせて。僕はナユ君といつも一緒に行動していたから。彼の好きな食べ物屋も教えてあげるよ。その店はこの街で一番有名な店でもあるからね」
「そのセリフを待っていたぜ」
こうしてガタロは鉛筆の願いを聞き入れて、その鉛筆をナユの元へ連れていくこととなったのです。
鉛筆曰く、ナユの家は鉛筆が落ちていた商店街からは目と鼻の先であり、商店街を北に抜けた先をまっすぐ二百メートルほど歩いた先にある、ということなので急ぎ足で向います。
そして数分後。
「ここがナユの家か」
二階建ての一軒家に車が二台ほど止められそうな駐車場。小さい子供がキャッチボールできそうなお庭の付きの住宅が、ナユの住んでいる家でした。
「じゃあ、早速だがおじゃまさせてもらうぜ」
早速、ガタロは家の玄関ドアに向おうとすると、ガタロが家のドアに着くより先に向こうからドアが開き、その中から一人の少年が、
「じゃあ、いってきまーす」
家の中にいる家族に挨拶をして、出てきました。
「おお、向こうの方からお出ましか。手間が省けたぜ」
ガタロは家のドアから出てきた、大きな黒縁眼鏡をかけ、髪型は坊ちゃん刈りの黒いランドセルを背負った少年に話しかけます。
「おはようナユ。君に少し聞きたいことがあるのだが」
「だっ、誰ですかあなたは。それになぜ僕の名前を」
見知らぬ男に突然、自分の名前を呼ばれ声をかけられたのか、ナユ呼ばれた少年は、不審者を見る目でガタロに聞くと、ナユの問いにガタロはポケットから鉛筆を取り出して、
「この鉛筆をさっき近くの商店街で拾ってだな。この鉛筆が俺に対して、ナユの元へ戻してほしいとお願いしてきたから、こうしてナユの元に届けに来たんだが」
鉛筆のお願いをそのままにナユへと伝えましたが、その言葉にナユは、
「えっ、なんでその鉛筆が僕の鉛筆だと分かったの?」
にわかに信じられない表情でガタロを見つめます。
「冗談に聞こえるかもしれないが俺は物の声が聞こえるんだ。お前よりもさらに小さい年のころからな。だからこの鉛筆が教えてくれたんだ。この鉛筆がナユ、お前の物だということも、この家の場所もな」
「そう……なの?」
ガタロは物の声を聞くことができる、という事実を信じられないのでしょうか。ナユはただただ困惑した顔でその場に立っていると、
「そういうわけだから、この鉛筆をお前の元へ返すぜ」
ガタロは右手に持った鉛筆をナユの手の中に渡そうとしました。
しかし、
「——いらない」
「はあっ!?」
なんと、ナユはガタロの右手とその中にある鉛筆を振り払ったのです。
「何でいらないだよ。これはお前にとって大事な相棒のはずだろう」
「僕はこんな鉛筆なんて知らないです。だからお兄さんが持っていてください」
「本当にそれでいいのか」
「…………」
ナユは無言でうつむきながらも、口を少しだけ開き、何かをガタロに告げようとした、
その時でした。
「ナユ~、忘れ物忘れ物~~」
「お母さん!?」
目の前にある家から、ナユの母が体育袋を持って家から飛び出してきました。その女性はナユの母もナユと同じく大きな黒縁眼鏡をかけており、服装はエプロンという格好をしています。
そんなナユの母は、息子の隣にいるガタロを見るやいなや、
「誰、この白髪のおじさんは。もしかして不審者——」
「誰が白髪のおじさんだっ、俺は確かに髪の毛は白髪だが、まだ二十代前半だっ」
ガタロは「おじさん」という呼ばれ方をしたことに、思わず逆ギレしてしまいましたが、
「じゃあ、あなたは家のナユにどのような用で」
ナユの母は、冷静に要件だけを聞くと、
「そっ、それは——」
ガタロはナユの母を前に、本当の事を言えずに黙り込んでしまい、何も言葉を返せない状態となってしまいますが、そんなガタロを見たナユはとっさに、こう答えたのでした。
「このお兄ちゃん。最近ここに引っ越してきたばかりで、道に迷ってしまったみたいなんだ。だから僕がお兄ちゃんに道を教えてあげていたところなんだよ」
ナユのついた嘘。それに続くようにしてガタロも、
「そうそう。俺、昨日この街に越してきたばかりでね。職場までの道のりを間違えて個々の住宅街に来てしまったもので、この少年に道を聞いていた訳なんですよね~~」
無理やりの作り話で場をごまかそうとします。
「そういうわけなんだ。それよりも僕、早く学校行かないといけないから。またねお兄ちゃん」
「おうっ、道案内ありがとう少年」
こうして、ナユはガタロと母を背に急いで走り去って行き、
「よしっ。俺も職場の道のりが分かったから。行かせてもらう——」
ガタロもすぐさまその場を後にしようとしました。
が、そこでナユの母は背後からガタロの腕を掴むと、
「ところであなた。その職場というのはどちらでしょうか。子供の道案内なんて、合っていないことの方が多いでしょうから。よければ私からも教えましょうか」
相も変わらず不審者を見つめる目で道を教えてあげようかと聞いて来ましたが、肝心のガタロはというと、
「えっ、えーとですね、それについてはですねぇ——」
この街に今日来たことこそ真実なものの、まだこの街にまだ職場は存在しないため、はっきりとは答えられません。
「あなた、もしかして私に対して何か嘘でも付いているの?」
「そっ、そっ、そんなことはないですよ、はははっ」
必死に良い答えはないか探すガタロとその答えを待つナユの母。会話が途切れ二人の間に数秒の沈黙が流れると突然、ガタロは頭を上げて空を見つめたかと思うと、次の瞬間。
驚愕の一言がっ!
「あっ、空の上に円盤が!?」
「えっ……?」
「あばよ」
ガタロは古典的なギャグでナユのお母さんの目線をそらした隙に、掴まれた肩を振りほどき、全速力で逃げ出すと、ナユ母にとってもあまりに突然の出来事だったのでしょう。ガタロの逃げ行く様子に、ただただ口をポカーンと空けながら見ているだけでした。
「うおっ、このシューマイうまっ、うまま」
ガタロはナユの母から逃げた後、一人街をぶらついているうち気づけば正午になっており、鉛筆に約束してもらった通り、この街でうまいと評判の飯屋の場所を教えてもらうと、その飯屋の名物であるシューマイを食べながら鉛筆をテーブルの上に置き、心の中から話しかけます。
「いやー、しっかしあの後、ナユの奴は俺が来るのを待っていたかと思っていたけど。本当に学校行っちまうとはな。家の前だから親にバレないようわざといらないと言った、と思っていたが」
「…………」
「そんなことよりも、お前が教えてくれた店のシューマイ、すごくうまいぜ。中に入ったこのぷりっぷりのエビがたまらん。もしお前も人間だったらこの味を堪能できたのにな」
ガタロは皮肉交じりに冗談を言うと、
「そうだね。僕も君のように人間に生まれたかったよ。その大きな口があればいくらでも自分の気持ちを人に伝えられるのに」
鉛筆は悲しいような、うらやましくもある声で、そうつぶいたのです。
「それよりもお前はこれからどうするよ。ナユはあと3日で作品を展覧会に出さなくちゃいけないのだろう。お前がナユの言う通りいらない子になるのなら、代わりに処分してやってもいいけど」
「それはだめだ。僕がいなくなったらナユ君は本当に絵を描くことをやめてしまう」
「じゃあどうしろと」
「それは——」
鉛筆は答えが出てきません。
そんな鉛筆の答えの出せない、中途半端な態度を見かねたガタロは、
「まったく、これだからしょうがねえなぁ、ガキの鉛筆は。こんな態度とられっぱなしだと俺もバツが悪いから。もう一回俺がナユに会わせてお前の気持ち伝えてやるよ」
なんと、ナユに再開させてくれることを約束したのでした。
しかしその約束に対しても、鉛筆はさきほどの件があったのでしょうか、
「だけど、もう一度ナユ君に会えたとしても、またいらないと言われたら僕は……」
ナユにまたも「いらない」、と言われるのが怖くて怖くて仕方がありません。
「そうだな。今のまま会ったら、きっとまた同じこと言われるのは目に見えているだろうな」
「じゃあ僕はどうしたらっ」
鉛筆は大声で叫びました。まるでガタロ以外の客の心にも聞こえそうな大きな心の声で。
そして、鉛筆の悲痛な叫びを店の中でただ一人聞いたガタロは、
「ナユが書いていた展覧会に出展する作品はどんなのだ?」
「えっ!?」
「だーかーら。ナユは一体どんな作品を描いていたのかって聞いているんだよ」
「それは——」
鉛筆にナユが描いていた作品のことを質問すると、鉛筆は描いていた作品の内容すべてを、正直にガタロへ話したのです。
「——そういうことか」
内容を聞いたガタロは、目をつぶりながらこくり頷き、
「よしっ。じゃあ今からお前を使って同じ絵を描くから。俺はその対象、描けなくはないけどさ。万が一間違っているといけないから。もし違う箇所とかあったら、ちゃんと指示しろよ」
鉛筆にとって、驚きの答えが飛び出してきました。
「えっ、ガタロ君が描くだなんて。どうしていきなり」
鉛筆は訳も分からずにいますが、ガタロはお構いなしに鉛筆へ命令します。
「四の五の言わず俺に従え。まずは絵を描く画用紙が必要だから、この商店街で文房具を売っている店を教えろ。それと絵を描けるスペース、そうだな。まぁ喫茶店でいいや。この商店街にある喫茶店の場所も教えろよ」
「ちょっと待ってよぉ~。僕、喫茶店なんて知らないですよ。ナユ君はまだ小学生だからそんなしゃれた店なんか入ったことないですし、それよりもなんで急に」
慌てふためく鉛筆に、ガタロは一言。
「目には目をならぬ、絵には絵を。人の言葉を話せない鉛筆がナユに思いを伝えられる手段なんて、絵しかないだろ」
「……うん」
ガタロと鉛筆は飯屋を出た後、すぐさま鉛筆はガタロに言われた通り商店街にある文房具屋の場所を案内することとなりましたが、文房具屋の場所は飯屋からわずか南に五十メートルほど進んだところにありました。
そこでガタロは、A3の画用紙と消しゴムを買い外に出ると、文房具やの向かいからはなにやらしゃれた音楽が聞こえてきます。そしてガタロは、音楽の聞こえて来た方向へ目をやると、運が良いことにその場所は偶然にも、ガタロが絵を描く場所にと探していた喫茶店でした。
喫茶店に入ると、店内にはすでに何人かお客さんがいましたが、運よく店の奥にあるテーブル席が一つだけ空いていたため、ガタロはその席に決めました。
席に座り、先ほど買ってきた画用紙と消しゴム、それから鉛筆を机の上に広げると中央のカウンターに向かって大きな声で一言。
「マスター、※トラジャある?」※コーヒーの種類であり、インドネシア原産の希少種
「ありますよ、トラジャですね。かしこまりました」
カウンターにいた喫茶店の店主にメニューを見るまでもなくトラジャを頼むと、店主はすぐさま豆を挽き始めます。
そして豆を素早く挽き終えると、挽いた豆の風味が逃げる前に手早くドリップへ入れ、それからお湯の入ったポッドで挽いた豆が型崩れしないよう、ドリップ全体にまんべんなくお湯を注ぎました。
ガタロが店に入って注文してから、ものの数分でコーヒーの完成です。
「はいお待ち。トラジャだよ」
「ああ、良い香り。この出来立ての香りがたまねえ」
ガタロはコーヒーの香りを手で仰ぎ何度か嗅いだあと、何も入れずに一口。
「うまっ、うまま。自分で入れるインスタンや自販機で買うのと違って、ブラックなのに苦くない。それでいて甘くもあり、酸っぱくもあり。喫茶店のコーヒーとは人生のいいところだけが詰まっている感じですな、マスター」
「はぁ……」
ガタロは一人、喫茶店の店主に自前のコーヒー論を語りましたが、店主はポカーンと口を開けて聞いているだけでした。
その様子を聞いていた鉛筆はガタロに対して、もっともらしいツッコミを入れます。
「あのー、ガタロ君。なんかいろいろと脱線していません?」
「ああ、すまんすまん。俺、食後のコーヒーにはうるさいからさ、つい」
「頼むよガタロ君。君だけが今の僕にとって唯一の頼みの綱なんだからね」
「まかせてちょうだい」
ガタロは右手に持ったコーヒーを半分ほど飲むと、コーヒーカップを鉛筆に持ち替えました。それから視線をテーブル上に向け、画用紙を真剣な眼差しで見つめたかと思うと、鉛筆をまるで自分の体の一部、いいえ、ガタロ自身が鉛筆の一部になったかのように、腕が、指が、鉛筆が、画用紙の上を走り回ります。
「すごいっ、すごいよガタロ君。こんなにも自由に絵を描く感覚は初めてだ」
「それなら俺の右腕にでもなるか?」
「いや、それでも僕はナユ君を選ぶね。君の腕前は素晴らしいけど、その感動は一回だけにしておくよ」
「そうか。俺、こう見えても裏の顔はそこそこ有名な画家だからさ。もったいないな」
残念そうに鉛筆を見つめるガタロに、鉛筆はまっすぐな声でこう答えました。
「僕が望むのは、いつも隣にいてくれた人の笑顔だからね」
「そう言うと思ったぜ」
その後も、ガタロは鉛筆の意思をそのまま模写するかのように、画用紙の上に書きたくり続けました。
最初に半分飲んだコーヒーの湯気は消え、冷気さえ感じられるほど冷たくなっていますが、それでもガタロは、あれほど好きだと言ったコーヒーなど眼中もくれずに、絵を描くことに没頭します。
そして気づけば喫茶店の時計の針は、ガタロが店に入ってから五時間ほど経過したところでついに——、
「よっしゃあ、完成だーーーっ」
「おめでとう、ガタロ君」
無事、A3の画用紙に絵を描き終えたのです。
ガタロは完成した絵の描かれた画用紙をくるくるっと巻き、コートのポケットにしまうと、残り半分の冷めたコーヒーを一気に飲み干し代金を払い、店を後にしたのです。
そうして店を出た後、商店街の真ん中でガタロは鉛筆を自分の顔に近づけて、
「これからナユに会いに行くわけだが、心の準備はできたか鉛筆」
「うん。君のおかげで僕も覚悟ができたよ。ありがとうガタロ君」
鉛筆は明るさを取り戻し、元気な声でガタロに答えました。
「さーてと。もう夕方なわけだし、ガキは家に帰って飯の時間だろうから。ナユ母と顔を合わせるのはアレだけど、俺も覚悟を決めて——」
一瞬ガタロの言葉が途切れたかと思うと、ガタロ達のいる位置から百メートル程離れた場所には、なんと、
「おっ、これはこれは。自分から行く手間がはぶけたな鉛筆」
体を地面に対し大きく「く」の字に曲げ、何か落し物を探しているような格好のナユがいました。
「よかったな鉛筆。最高のタイミングにしてこの状況。残念だったな、俺の鉛筆になれなくて」
「ガタロ君。冗談はいいから、早く僕をナユ君の元へ」
「はいはい」
ガタロ鉛筆に言われるがまま、ナユのいる元へ前進すると、五十メートル程歩いたところで立ち止まり、ガタロは大きな声でナユに呼びかけます。
「おーいナユ。お前の探し物は俺が持っていると、朝に言ったばかりだろ!?」
そしてガタロの声を聞いたナユは、顔をガタロに向けるやいなや、
「おいっ、なんで逃げ出すんだよ」
急にガタロがいる反対方向へ走って行きました。
ガタロはナユが逃げていく様子を黙って見ているわけにもいかず、声をあげながら全速力で追いかけます。
「待てよ。どうして逃げるんだ!? お前の鉛筆は俺が持っていると言っただろう。待てこらああああ」
ガタロがナユを追いかける姿を不審に思ったのか、商店街の住民達は携帯を取り出していつでも百十番をかけられるようにと準備するも、ガタロはそんな周りの風景が見えないのか、はたまた最初から気にしていないのでしょう、全速力でナユを追いかけます。
それから数分の追いかけっこの後、ナユの目に商店街の出口が見えた、
その時です。
「うわっ、離してよ兄ちゃん」
「はぁはぁ……。やーっと捕まえたぜ、このクソガキが」
ガタロはナユの肩をがっちり掴み、ナユが逃げるのを無理やり阻止しました。
「何で僕を追いかけてきたのっ」
「はぁはぁ……。そんなのさっき俺が大声で言った通り、この鉛筆をお前に返すためだ」
そう言いうとガタロは、ポケットから鉛筆を取り出しては、」朝の時と同じく再びナユに見せました。
「お前、さっき商店街で下面向いて探していたのはこれのことなんだろう。朝にお前に見せたというのに、なんで信じなかったんだよ」
「………………」
ガタロのセリフにナユは言葉が出ませんでした。
「まあ、いきなり見知らぬ男から自分で失くした、ではないな。自分で捨てた鉛筆を見せられて、これお前の鉛筆だろ!? なんて言われても信じられないよなぁ普通は」
「うん……」
ガタロに言われた通り、ナユはやはり信じられない顔をしています。
「だけどお前も自分で探しても見つけられなかったことから分かっただろうが、俺が手にしているこの鉛筆こそがお前の鉛筆だから。何も言わずに受け取れ」
ガタロは左手でナユの右手を掴み、鉛筆を渡そうとしましたが、
「——いらない」
「はぁっ!?」
ナユの答えは変わらず、朝の時と同じ。またもガタロの手を振りほどきます。
「なんでだよ。自分で探しておきながらなんで」
ガタロは眉間にしわを寄せて、激しくナユの肩を揺さぶりましたがナユは顔色を変えずにこう言いました。
「僕、冷静になって考えたけど。クラスの友達やお母さんの言う通り、僕に絵を描くことは向いていないんだ。そういうことだから、絵を描くためだけに使ってきたこの鉛筆はもういらない」
「お前がクラスメートや母にそういわれたのは、展覧会に出す絵の題材のせいだろ。向いている、向いていないとか、そんなのではないだろっ」
「なんで、展覧会のことを」
ナユは展覧会のことを聞くや、突然顔を上向きにしてガタロの顔を見つめました。
そしてガタロは、ナユの視線に答えるかのように、コートのポケットから折りたたまれた画用紙を取り出してそれを開くと、
「この絵は、まさか——」
「お前が展覧会用に描いていた絵だ」
画用紙には一人の女性の絵が描いてありました。
「鉛筆が教えてくれたんだ。お前が描いていた絵の内容を」
「どうしてそれを」
「どうしてって。そんなの朝に話した通り鉛筆がお前の元に戻って絵を完成させたいって気持ち。俺を通してナユ、お前に伝えたかったんだよ」
「お兄ちゃんは本当に物の声が聞こえるんだね」
「やっと信じたか」
ナユはガタロが本当に物の声を聞くことができる真実に、驚きを隠せない声と顔で言いました。
そしてガタロはナユの右手をもう一度掴み、
「これで俺の言うことも鉛筆の気持ちも分かったことだし、さっさと受け取れ。鉛筆は俺よりもお前の方が断然良いって言っているぞ。まぁ、絵は俺の方が上手いがな」
鉛筆を手渡そうとしますも、
「それでも、いらない」
「おいっ、それ本気で言っているのか?」
「うん……」
ナユの答えが変わることはありませんでした。
「何でだよ。自分にとって一番大事な鉛筆よりも、そんなに周りの言うことが大事なのかよ」
「僕には、一度この鉛筆を捨てた僕には絵を描く資格なんてないんだ。それにさっきも言った通り、友達やお母さんの言うことも間違っては……」
「ああ、分かったよ。じゃあそんなにこの鉛筆がいらないというのならお前の見ている前でこの鉛筆をこうしてこうして……」
ナユの答えに激昂したガタロは、手に持った鉛筆を顔に近づけ、、
なんということでしょう!!
「ひょうがくせーひゃ、えんひつをかふのひゃすきひゃろ。それひゃらおれのひゃでひょれひょひみひゅうひゃいてひゃる(小学生は鉛筆を噛むのが好きだろ。それなら俺の歯でこいつをかみ砕いてやる)」
鉛筆を口にくわえるや、歯で鉛筆を噛み始めまたのです。
その姿に、あっけ取られるナユに対して、ガタロは歯をギシギシ左右に歯ぎしりをして鉛筆をかみ砕こうとすると、鉛筆はガタロの噛みつきに苦痛の悲鳴を上げますが、ガタロの心はすでに鬼。鉛筆の悲鳴に心の耳を傾けることなく、噛む力を強めていきます。
「ひょーら。えんひつひゃ、くるひいくるひいいっひぇるひょお~(ほーら、鉛筆が苦しい苦し言ってるぞ~)」
ガタロの噛みつく姿にナユは涙ながらに顔を横に向けますが、ナユの耳にはガタロの歯ぎしりによって鉛筆からミシミシと、今にも折れてしまいそうな苦痛の音が聞こえてきます。
そしてガタロの歯ぎしりによってついに、鉛筆の芯にバリッと大きな音が商店街に鳴り響いた、その瞬間、
「やっ、やめろーー。やめろ、やめろ、やめろーーーー。これ以上、これ以上僕の鉛筆をいじめるなっ」
ナユは叫びながら、その小さな体で自分の倍の体格はあろうガタロに体当たりをしたのです。
その衝撃でガタロは地面に倒れたと同時に、鉛筆はガタロの口から離れ地面に落ちると、ナユはすぐさま落ちた鉛筆を拾い、
「ごめん、本当にごめん。鉛筆の気持ちに気づかなくて」
大粒の涙を流しながら、ヒビの入った鉛筆を手のひらで抱きしめ、その涙はナユの顔を伝い落ち、手の甲から鉛筆のある手のひらに流れて行きます。
その横で倒れたガタロは立ち上がり、やれやれと言った表情でこう言いました。
「ったく、そんなに大事だったなら、意地っ張りな態度取らず最初から素直なままでいればよかったのに、お前は小学生なんだから」
それを聞いたナユはガタロを睨みつけて、
「僕の鉛筆にひどいことして絶対に許さないんだから、お兄ちゃん」
だが、次に出た言葉は、
「だけど、ありがとう。僕の本当の気持ちを気づかせてくれて」
心のこもった、感謝の言葉でした。
流れた涙の後を拭き、鉛筆を強く握りしめるナユに対して、ガタロはそっぽを向きながら、
「礼はその鉛筆に言えよ。俺は鉛筆がうまい飯屋を教えてくれたお礼に、きっかけを与えてやったにすぎないんだからなっ」
ガタロ自身も素直になれないのか、それとも照れくさいだけなのでしょうか。ぶっきらぼうにそう言い放ち顔を赤くしていると、そんな二人の今までのやり取りを見ていたかギャラリー達が「なんだなんだ」、と言いながら大勢二人の前に集まってきました。
「まっ、とりあえず一件落着ということで。周りの野次馬達は俺が小学生に悪さをして泣かしたと騒いでいるみたいだし。とっととずらからせてもらうぜ」
ガタロはナユと鉛筆を背にギャラリーをかき分けるようにして前に進み、そしてナユから二十メートルほど先にある商店街の出口に着く、ガタロは振り向き様に一言、彼等にこう言い残し走り去っていきました。
「あばよっ、鉛筆と少年」
ガタロが鉛筆と別れてから数か月後。桜舞い散る春、とある街の美術館にて。
背中まで伸びた白髪に黒い清掃服を着た男が、美術館にある展示スペースの一室を清掃しており、男が清掃していた場所には「第十九回全国小学生芸術展覧会」、という大きな看板が置かれており、大小様々な絵が壁に立てかけられ展示されております。
床のごみを掃除機で吸い取りながらも、男は各絵を見て回っていると、大きな黒縁眼鏡をかけた女性の描かれた一枚絵、の前で足を止め作業を中断すると、男の見つめる絵の隣にあるプラカードには、題名にこう書かれておりました。
「世界で一番大切な、僕の大好きなお母さん」
そしてその題名以上に、もう一つ隣にあるプラカードには大きな文字で「大賞作品」と書いてあります。
男はそんな絵をまじまじと近くで見つめると、突然絵の方から男の心の中に対して、
「白く長い長髪の男——。貴方、もしかしてガタロさんなのでは?」
語りかけてくると、対して「ガタロ」、と呼ばれた男も心の中から、
「ああそうだが。久しぶりだな、鉛筆。ではないな。この場合は初めましてだ」
挨拶を返したのでした。
「貴方のことは私を描いてくれたナユと鉛筆から聞きました。貴方のおかげで今の私が生まれたのですってね」
「へっ、俺のおかげで絵が完成して大賞をとり、清掃の仕事で来たこの美術館で偶然再開か。朝早いっていうのになかなかいい気分だ」
ガタロは絵を前にして、とても嬉しそうな顔をしています。
「ナユが私を描くにあたって、対象が自分の母親だからと、それを知られた友達にお母さん大好きっ子とバカにされて。絵の題材のことはお母さんには内緒にしたい、からとこっそり描いていましたらそれを知らなかったお母さんに、絵なんかかいていないで勉強しろ、と一喝され。そんな逆境下で心の折れたナユに鉛筆の思いを伝えて絶望から救い、もう一度私を描くことに向き合わせてくれたガタロさんには、なんとお礼を申したらいいのでしょうか」
「絵がお礼なんか考えても仕方がないだろうに。まぁそれよりもさ」
「それよりも?」
ガタロは苦笑しながら絵にある質問をします。
「今頃ナユの絵を、マザコンの書いた絵は気持ち悪い、とバカにしていたクラスメートはさぞ悔しがっているだろうな。まさか全国区でこれだけの賞をとれるなんてよ。それにナユの母もこの絵と賞を前にしたら勉強勉強なんて言わずに、もっともっと絵を描いて上手になってもらわないといけませんわね、とか言うんだろ。それこそが自分の母に絵を描くことを認めてもらうためのナユの本当の狙いだったのだろう?」
「よく分かりましたね。まさしくその通りです」
「やっぱり!?」
ガタロは自分の思いが当たったのか嬉しそうな顔をすると、そのままに掃除機を手に取り掃除を再開します。
手際よく部屋全体に掃除機をかけると、あっという間に部屋には埃の一つもなくなり、掃除を終え部屋から出ようとすると、
「ちょっと待ってください、ガタロさん」
絵は最後にもう一度、ガタロを引き留めました。
「何だ? 言っとくがさっきも言ったように、お礼ならいらないぞ。だけどもし、どうしてもお礼がしたいのなら——」
「ガタロさん。この街で一番おいしいと評判の店、教えましょうか。それに喫茶店も」
それを聞いたガタロはにやりと笑い、一言。
「そのセリフを待っていたぜ」
「鉛筆と少年」 終