果てなき夏の記憶
私はふと壁に掛かったカレンダーを見た。
「八月十五日……ああ、そうか。今日は終戦記念日なのね」
私の頭にぼんやりと夫の顔が浮かぶ、あの人が徴兵され、勇ましく戦地へ赴いたのも、蝉の鳴き声がよく響くこんな暑い夏の日だった。
私はなんだか急に懐かしい気持ちになり、あの人の若く凛々しい顔がどうしても見たくなった。
「確か、アルバムがタンスの上にあったわねぇ……」
私は台の上に乗り、タンスの上に手を伸ばした。
「……あったわ」
お目当てのアルバムを手に取ると、私は座布団の上に正座した。
「懐かしい。このアルバムを見るのも何年ぶりかしら」
あまり埃をかぶってない所を見ると、嫁の貴子さんがマメに掃除をしてくれているようね。結構結構……と私は心の中で嫁に賛辞を送った。
手のひらでアルバムの上を軽く払うと、私はゆっくりとページを開いた。
最初に私の目に飛び込んできたのは、あの人と一緒に初めて撮った結婚写真だった。
顔を白く化粧して、白無垢に赤い打ち掛けを着た私は、洋風の椅子に腰掛け口を一文字に結んでいる。
「ふふ、これじゃあ出来の悪いお雛様みたいね」
私は照れ隠しするように呟く。
それに比べてあの人は、下ろし立ての軍服と帽子を身につけ、その姿も表情もどれも端正で、今見ても思わず惚れ惚れしてしまう。
「あぁ、いつ見てもあなたは美しいわね、私はすっかりお婆さんになってしまいましたよ」
私は小さくため息を吐き、アルバムを閉じることにした。これ以上見ても自分が惨めになる気がして、ページをめくる勇気が出なかったのだ。
私はしぶしぶとアルバムをタンスの上に戻すと、再び座布団の上に座り、何をするでもなくぼんやりと考えを巡らせた。
「あの人に会いたいわぁ……」
この歳になると、つい思ったことを口に出してしまう。この前も息子につい余計なお節介を焼いて、逆に怒られてしまったばかりだ。
その時、ふいにある考えが浮かんだ。
「そうだわ、お墓参りに行けばあの人に会えるじゃない」
私の心の中に急に爽やかな風が吹き込んだような感じがした。
最近は私の足腰も少しずつ弱くなり、あまり長い間は歩けなってしまった。
息子の車で墓地まで連れて行ってもらっても、そこからあの人のお墓まで距離があるので、おそらく次が自分の足で歩いていける最後のお墓参りになるだろうと思っていた。
「今日しかないわね」
私は床に手をつきながら立ち上がると、杖をついてリビングまで歩いて行った。
リビングにつくと、息子はソファーで横になってぐうぐう昼寝をし、貴子さんは床に座ってテレビのワイドショーを見ていた。
「ねぇ……貴子さん?」
私はなるべく優しい口調で貴子さんに話しかけた。
「お義母さん、どうかしました?」
キョトンとした嫁の瞳に、私は小さな怒りを覚えた。
今日は八月十五日の終戦記念日なのだ、あの人の命日ではないにしろ、久しぶりに墓参りへ行きましょうと言ってくれても良いのではないか。
息子も息子だ。
貴子さんの言いなりになってばかりで、私のやることにも必ず否定するようになった。
今日が終戦記念日だと言うのに、祝日だと喜んで昼間からソファーで寝るだけとは情けない。
と、そうは思っても今や居候の身になった私には、そんなことを言う権利もないだろうと思い、私は優しい口調に努めた。
「今日は天気も良いことだし、久しぶりにお父さんのお墓参りにでも行こうかしらねぇ?」
私はにっこりと笑顔をみせてやったが、貴子さんの表情はみるみる消え失せていった。
「お義母さん、墓参りには行きませんよ」
ピシャリとそう言い放つ貴子さんの言葉に、私は思わず唖然としたが、徐々にこの嫁に対する怒りがふつふつと込み上げてきた
「な、何でそんなこと言うんだい。今日は終戦記念日だよ! 貴子さんにはお父さんのことを思う気持ちはないのかい!」
高ぶる気持ちが抑えられず、つい大きな声を上げてしまった。口の中の入れ歯がガチャガチャと音をたてる。
すると、貴子さんはすっと立ち上がり、私の所へ来るとこう言った。
「あのねお義母さん、よく聞いて。今日の午前中に主人と私とお義母さんとでお墓参りに行ったんですよ。それにね、お義母さんさっきも、その話しをしにここへ来たの」
その瞬間、私は全てを思い出した。
杖をついてフラフラになりながら、あの人のお墓の前まで歩いたこと。
貴子さんと一緒にお墓の掃除をし、線香をあげたこと。
そして帰りに息子と来年もまた来ようと笑いあっていたこと。
「あ、あら。そうだったわね、ごめんなさい貴子さん。今の話しは忘れてちょうだい」
私は恥ずかしさと居た堪れなさで、これ以上ここに居ることが出来なくなった。私は顔を下に向け、赤らんだ顔を見られない様にしていそいそと部屋へ戻った。
部屋へ戻った私は、力なく座布団に座り込んだ。
どうしてこんな大事なことを忘れていたのか……
あの人に会ったことさえも忘れるような人間に私はなってしまったのか……
私は絶望感に包まれ、次第に頭が真っ白になっていくーー
意識の遠くの方で何か聞こえる……。
その音が壁掛け時計の鐘の音だと気がつくと、私はすっかり機嫌が直っていた。
若い頃から、嫌なことがあっても切り替えが早くて羨ましいと友達にもよく言われたものだ。
私は時計で時間を確認すると、その隣に掛けてあるカレンダーがふと目にとまった……
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