援助交際
(1)「孤独なオヤジ、ここにあり!」
ここ数年、リーマンショックやら円高、ゼロ金利政策、デフレスパイラル・・・等々のお陰で私の勤めている会社も相当数の人員整理を行った。が、全体の仕事量に変化がある訳ではなかった。
もう5年にもなるか。毎日無償の早出残業、帰宅は接待が多く殆ど午前様。風呂飯睡眠また会社の連続だ。
どうやら最後の砦の妻にも愛想を尽かされたようだ。近頃は顔を会わせても「いってらっしゃい」でもなければ「お帰りなさい」でも無い。顔を合わす回数も激減した。帰宅後の食事は作り置き。孤独にチンして温める。用事があればメモが置いてある。妻は・・・既に就寝中か、近所の奥さん連中と夜遊びだ。朝も早出が多いので、妻がまだ寝ている間に出勤。妻の顔さえ忘れそうだ。
毎晩死にそうになって帰ってきての「夜のお勤め」は私の体力では無理だった。何度かサインを送られた事はあったが、申し訳なく思いながら無視。忙しくなる前は、サインさえキャッチすれば無理を押しても即OKだったのだが。近頃はEDじゃないかと思うくらい下のほうも項垂れたまま元気が無い。歳のせいもあるかも知れないが、「ああ、生物の雄としての役割はもう終わったんだな。」と、少しがっかり。
今は寝室も別々にされた。高校生の娘の顔も、記憶にあるのは小6か中1の頃の幼顔だけだ。娘との生活時間帯が全く合わない。
休日の約半分は接待に使われる。やっと休みかと思って家族でドライブでもと思えば、妻は「今更・・・」と断り、娘は?と思えば、昨晩から友人の家に「お泊り」のご様子。
「亭主元気で留守がいい」とかCMで見たことがあるが、我が家、いや、私に関してはその限度を超えている。妻には相手にされない。娘の顔さえ見られない。少しは大人の顔になって色気でも付いたのかな?久しぶりに顔だけでも見てみたい。
「何か、孤独ってこういう事を言うのかな・・・」とポツリと独り言をいうのが精一杯だった。
少し寂しくなってきた。いや人恋しいのか?情けない自分と寂しい自分が葛藤をし、頭がおかしくなってしまいそうだ。こういうパターンでうつ病に陥ってしまう人が多いと先週見た朝刊にかいてあったな。あれだけは何とか避けなければ。今まで築き上げてきたものが一気に崩れそうだ。「積み木崩し」なんてドラマも昔あったな。
さて、朝5時だ。今日も早出だ。誰も居ない薄暗い居間に向かって「行ってきます」と言葉を掛けていつものように家を出た。
その後に会う友人が引き金になって大きな事件が発生するとも知らずに・・・
(2)「久々に会った友人の会社って・・・」
ある日の退勤時間前、常務に呼び出された。常務室に行くのは慣れていたが、こちらは時間が押している。「これから接待なのに・・・」仕事にミスはなっかたはずだし、問題児の部下も今日は仕事をそつなくこなしていた。「もしかして、転勤???」色々な考えが交錯しながら常務室に入る。
「失礼します。ご用件は?何かミスでもありましたでしょうか?」久々にビビりながら常務に尋ねた。
「ああ、電話でも良かったんだがね、今日の接待なんだが、先方の都合で延期になったよ。私は早々に退社するよ。ここの所接待続きだったからね。お互い疲れが溜まってるだろう。君も早く帰ったらどうだ?久々だろう。家族団欒で夕食でも食べてゆっくり休んだらいいよ。」常務はそう言い終わると、鞄を持って会社を後にした。
「今日かぁ・・・夕食要らないって言ってあったからな。用意してないだろうな。」取りあえず自宅に電話してみたが、思った通り留守電だった。
「よし!たまに一人でゆっくり一杯飲んで帰るか!」私も会社を後にした。
「独り居酒屋」は暫く振りだ。でも気楽でいい。普段日だったので客もそう多くはない。他人に気を使うこともないし、好きな酒と好きな料理がゆっくりと楽しめる。カウンターに座りながらマイペースで自分の時間を楽しんでいた。
酒も料理も進み、ちょうどほろ酔い加減になった頃、「らっしゃいっせー!」店員が掛け声を掛け一人の男性客が店の中に入ってきた。
どこかで見た顔のような・・・「あ!」思い出した。同期入社で情報管理室に居た佐藤だ。結構派手な服装だった。退職後に起業して成功したと噂には聞いていたが、どんな商売で成功したのだろう。向こうはすぐに気が付いた様子ですぐに近くに寄ってきた。
「吉田・・・じゃないか?久しぶりだねえ。こんな所で会うとは思わなかったよ。何年ぶりかな?まだあの会社に居るのか?」人懐っこくて親分肌の性格はまだそのままだった。
「ああ、会社の体質はあのまま変わらずだ。この間若干のリストラがあってね。ま、何とか生き残ったけどね。」
彼は私の隣に座り、「今日は奢るからさ。旧友との再会に乾杯だ!兄さん!生ジョッキ2つね!」。独りの楽しい時間は無くなってしまったが、会社でも一緒に昼食を摂るくらい仲が良かった。決して嫌いな男ではない。今日は革めて二人の時間を楽しむ事にした。
暫く昔の思い出話に耽っていた。時間が経ち、酔いも回ってきた頃にはお互いの現状や家族の話になっていた。
「お前も苦労してるな。そうだ!俺の会社言ってなかったっけ。名刺渡すわ。」。渡された名刺には”佐藤興行 代表取締役 佐藤隆一”と書いてあった。裏面を見てちょっと驚いた。「お前、出会い系サイトの社長か?」
「そうだよ。何か悪いことしてるかな?最初は苦労したけど、今や業界の5本指の大手になったんだよ。」いや、悪くはないんだが、少々・・・ねえ。
「いや、そうじゃなくって、やっぱりプログラムとかに強かったお前らしいなと思ってさ。ちょっとびっくりしたけどね。」
「そうだ、メルアドと携帯番号教えてくれよ。入会して遊んでみたらどうだ?家庭も面白くないんだろう?ポイント無限のマスターIDやるから、こういう場で少しストレス発散したほうがいいよ。ちょっと遊びのつもりでさ!別に最終目的が肉体関係だけとは限らんよ。カテゴリも希望別に分けてあるし、上手く若い娘と出会えたら食事だけでも気分転換になるぞ。」
言われればそうかもしれない。妻からは卑下され、娘の顔さえ見られない。半分家庭崩壊みたいなもんだ。私はお金を運ぶロボットじゃない。
酒も相当回っていた。勢いでそのIDを貰うことにした。「トキメキメール、か。」
「今日は悪かったね。ご馳走さん。いい気分転換になったよ。」
「気にするな。毎日だったら奢らんから。」笑いながら佐藤は歓楽街の奥の方に向かって歩いていった。
気分良く居酒屋を出、タクシーで帰宅。だが、何故か心に少しだけ引っかかるものがあった。が、それも酒の勢いですぐに消え去ってしまった。
「明日IDが届いたら早速1回試してみよう。」。逆に初めての経験の前に心が少しだけ、踊った。
(3)「そして、初体験」
翌日の午前中、佐藤から約束のIDとパスワードがメールで送られてきた。とほぼ同時に電話が来た。
「仕事中で悪いな。ちょっと時間あるか?注意事項が2,3あってね。」
「昨日はどうもな。ああ、大丈夫だ。午前中は結構緩いんだ。昔と変わりないよ。」。今日は会議もないし、10分や15分なら時間的には余裕で空けられる。問題はない。
「お前、慣れてそうじゃなかったからちょっと心配でね。プロフィールとか書く欄があるんだけど、実名は書くなよ。変な所で馬鹿真面目だからな。皆、ニックネームを使うんだ。歳も3つ位は若く書いた方がいい。お前若く見えるからな。それから、すぐに相手のメルアドを聞かない事。4~5回目の往復・・・そうだな、2日か3日も経てばお互いのこともよく解るし、そこまで続くって事は相性がいいって事だ。その辺りがチャンスだから。ああ、あと携帯のロックは忘れずに。奥さんにバレても保証出来んからな。覚えておきな!じゃ、また飲みにいこうぜ!」
「すまんね。手解きまでしてくれて。」・・・昔から変わらないあいつ。出世頭だったんだけどな。でも、あの性格。一匹狼は決して羊にはなれない。自由奔放の彼にはこの商売があっているのかもしれないと思った。
午後に会議の予定が入っていた。午後1時半、第一会議室。昼食後の予定は会議まで空白だった。ちょうどいいな。取り敢えずはプロフィールだけは作っておくか。
昼食後、外の空気を吸うのとプロフィール作りを兼ねて、会社のビルの外に出た。プロフィール作りというものは意外と面倒くさいものだ。自己紹介と自己評価に手間取った。まあ修正は後でも可能なので適当に。ニックネームを考えるのにも迷ったが、私の愛用のタバコ「ラークマイルド」と入力したら、重複無しで名前が決まった。
後はカテゴリだ。割り切り・一晩限り・お食事まで・ドライブ・気分次第・年齢制限・愛人志望・・・意外とたくさんあるものだ。あまり下心はない。ちょっと会えてお茶でも出来ればな。と思い、「お食事まで」を選択した。この辺りが初心者の私にとっては無難な線だろう。
やっとの思いで初期の設定が終わった。また次に時間でも空いたら検索でもしてみよう。
時計を見たら、ちょうど1時15分。ビルに戻って会議の準備をすればちょうどの時間だ。
携帯をポケットにしまい、事務所に戻った。会議は難航し、2回の休憩を挟んで深夜に及んだ。その頃にはもう「トキメキメール」の事はすっかり頭から抜け去っていた。
今日も午前様で帰宅。いつものように居間には誰もいなかった。チン・マイ・セルフ、か・・・。明日も早出だ。
数日が過ぎ、「トキメキメール」の事もすっかり忘れてしまいそうな頃だった。
ある一通のメールが届いた。「ラークマイルドさん宛に通知が入っています。下記のURLにアクセスしてお返事してあげてくださいね^^」。どうやら「トキメキメール」のメールボックスに投稿があったようだ。
そして私は「パンドラの箱」を開けてしまった。人生の変化が目に見えて近づいてきた。
「ラークマイルドさんへ。プロフ見ました♪もし今日、お時間あったらご飯おごってくれませんか?19歳のナツミっていいま~す!よろしくネ♪」
初メールだ。若かった頃に流行った「文通」を思い出した。よく雑誌の最後の方に”文通コーナー”ってのがあったっけ。
今日は頑張れば何とか8時には会社を出られそうだ。一瞬ためらったが、家でチン・マイ・セルフよりはましだ。たまには若い娘と食事くらいはいいだろう。19なら法律にも触れないだろう。
吹っ切れた私は掲示板に返信した。「ちょっと遅くなるけど、9時でも大丈夫かな?どこか好きな店があったら、そこで待ち合わせしようか?」
返信は早かった。「じゃ、9時に1丁目の角の”ジャミー”ってお店の前で。1回行ってみたかったの。ピンクのバッグに上が白で下は黒のスカートです。すぐわかると思うので声掛けてくださいね♪」。ああ、接待で何回かは行った事はあるが、ちょっと若い娘じゃ手が出ない店だろうな。多分そういう所で食事してみたかったんだろう。店の雰囲気も悪くは無い。おじさんとご飯で面白くないかもしれないが、きっと雰囲気くらいは楽しんでもらえるだろう。
「佐藤の会社って、凄いな・・・1発で逆ナンか・・・年収で決めたな。」。ニヤリと笑みを浮かべた後にだんだんと興奮してきて手が震えてきた。若い頃に味わったような、爽やかでハッピーな気分を思い出した。
「よーし、急いで仕事、片付けるかぁ!!!」。いつも以上に気合いが入った。
(4)「男版、シンデレラの時間」
発奮したせいなのか、タイミングが良かったのか、以外と仕事が早く終わった。まだ7時半だ。少し時間が余った。
「早く合えるかもしれないな?」と思い、掲示板に「仕事が早く終わったので、少し早く合えるかな?」とメールボックスに返信した。
5分ほど経った頃、返信が来た。「大丈夫で~す♪じゃ、これから”ジャミー”に向かいますね。店の前で待ってますから♡」・・・お!ハート付きか。若い娘はノリがいいな。こっちは仕事のメールばかりで絵文字や顔文字なんて使ったことないしな。こりゃ、少し勉強しとかなきゃならないかもしれない。
荷物を鞄に入れ、会社を後にした。”ジャミー”までは歩いて10分と言った所か。気が焦る分だけいつもより遠く感じる。こんなワクワク感は久しぶりだ。結婚前の妻とのデートを思い出した。この通りも何回も一緒に腕を組みながら歩いたっけ。懐かしい。
少し妻に対して罪悪の念が湧いてきた。共に歩いた20年か・・・結婚記念日・妻の出産・娘の運動会・父兄参観もずっと仕事優先だったな。何回妻に幸せと思ってもらったか?子供のイベントにも何回出席したか・・・だが、もう過ぎてしまった話だ。昔には戻れない。そう思うと少しだけ気が楽になった。
そんな事を考えながら歩いていたら、気がつけば”ジャミー”のすぐ傍まで歩いて来ていた。もう100mも歩けば店の前だ。少しずつワクワク感が罪悪感を消し去っていく。
あと50m・・・店の看板が見えてきた。そして遠くに小さく白の上着に黒のスカートの女性らしい姿が薄っすらと見えてきた。多分そうだ。きっと彼女だろう。高揚感が一気に上昇した。
一歩歩く毎にその姿は少しずつ大きくなり、そしてはっきりと見えるようになってきた。彼女はピンクのバッグを持って店の前の少し脇の方に立っていた。間違いない。そして遂に彼女の目の前まで近寄った。どこかで会ったような気がする。と言うか、何か懐かしさと似通った雰囲気のある顔と雰囲気だ。体形はやや細め。背は160cmくらいだろうか。顔はそう悪くはない。どちらかといえば好みの部類に入る。
「・・・ナツミ・・・さん。かな?」少々緊張し始めたようだ。言葉に少し、詰まった。「ラークマイルドさんですか?こんばんわ~。初めまして。」彼女はこういう事に慣れているのか今時の若い娘は緊張と言うものを知らないのか、人懐っこく切り出した。「ラークマイルドです。よろしくね。」私は浮き上がりそうな気分を押し殺して、大人の雰囲気でご挨拶。
「この店は初めてだったね。来てみたかったのかな?」メールボックスに書いてあった事を思い出しながら話を進めてみた。
「はい♪1度来てみたいと思ったんですケド・・・高くって・・・」ちょっと申し訳なさそうに答える彼女。
不思議に会話が通る。普通20歳も歳が離れていれば会話も途切れ途切れになるのが普通だと思っていたのだが。
「じゃ、店に入ろうか?好きなもの遠慮なく頼んでいいからね。」手元に2万と数百円か。ま、カードもあるしどうにでもなるだろう。
「はい!お願いします!」。はきはきしていて良い娘だ。かえってその方が楽だ。
レディーファーストだな。店のドアを開け、「じゃ、どうぞ。」と彼女を店の中に送り込む。
店はそう大きい店ではない。10組も入れば満員だ。3組ほどが中で食事と会話を楽しんでいた。案内された席は店の奥の壁際の真ん中の席。他の客とは少し離れていた。会話をするには周りにも響かずちょうど良いかもしれない。
間もなくボーイがやってきた。「メニューでございます。お決まりになりましたらお手元の呼び鈴にてお呼び下さい。では、楽しいお時間を。」
「ここ・・・お水出てこないんですか?」彼女が唐突に切り出した。
「あはは。水かい?こういうお店は頼まないと出てこないんだよ。ファミレスとはちょっと違うからね。」。ファミレスの延長と思っていたらしい。闊達で面白い娘だ。
「へ~。そうなんですか?お水って、絶対最初に出てくるんだって思ってました。」恥ずかしそうに答える彼女。
「さ、お腹空いてるんでしょ。好きなもの頼みなさい。何でもいいんだよ。」と言いながら心の中ではキャビアとフォアグラの連発だけは勘弁と願っていた。
「メニュー、英語ですね♪でも・・・読めません・・・同じもの頼んでいいですか?」
「ああ、そうか・・・じゃ、コースじゃなくってセレクトで食べようか。いつも食べているような感じの物と、ちょっと珍しい物の組み合わせにしよう。で、飲み物は?」
「あの・・・」ちょっと言葉が詰まったらしい。
「どうしたかな?遠慮なく言ってごらん。」。19か・・・未成年だし。多分その話だろう。
「ワイン飲んでみたいです・・・19ですけど・・・」。まあ、1口2口ならいいだろう。アルコール7%のワイン、ここにあったな。確か。
「じゃ、ちょっとだけだよ。」。呼び鈴を鳴らすとボーイがやってきた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「セレクト出来るかな?あと今日のお勧めとかあれば。後はワインなんだけど、7%のあったよね。」
「はい、7%はロゼが数種類ございます。料理のセレクトもお選び頂けます。」
「彼女、あまりアルコールに強くないんだ。料理に合わせて適当なワインを。料理は○○と▲▲と・・・」
「かしこまりました。では、ワインを先にお持ちいたします。」
間もなくワインがやってきた。あまりロゼは好きではないのだが、いつも飲んでるチューハイの延長と思えばアルコールに変わりは無いだろう。
「じゃ・・・何に乾杯しようか?ん~・・・そうだ!楽しい食事ができる様に”ジャミー”に乾杯!」
「は~い♪かんぱ~い!」
「チン」とグラスが重なった。会話も途切れる事無くそう悪くはなかった。2時間ほどの楽しい時間が過ぎた。
「今日はご馳走様でした。ちょっと酔っちゃったケド、すごく美味しかったし楽しかったです♪またご飯に連れてってもらえますか?」。料理が気に入ったのか、酒が少し回っているのか、それとも私が気に入ったのか。いずれにしても満足はしてもらえたようだ。私も何十年振りにちょっとだけときめいて楽しかった。
「そうだね。今日は楽しかった。何年ぶりかな、こんなに楽しい食事は。」。本心そのままを伝えた。
「あの・・・これ・・・」。突然彼女が1枚のメモを差し出してきた。携帯のメルアドと電話番号だった。
「いいのかな?受け取って?」。食事1回限りだと思っていた私は少々驚きが隠せなかった。
「次からの連絡は直接でいいですよね♡」
「そうかい。じゃ、遠慮なく。じゃ、私も。」手帳の空欄に電話番号とメルアドを記入して千切って渡した。
「もし、またご飯が食べたくなったら連絡してくれればいいよ。ただ、電話は出られない時が多いから、なるべくメールでお願いしたいな。」
「は~い♪わかりました~♡」
店を出る時間に合わせてタクシーを呼んでおいた。時間も時間だし、帰り道で何かあっても困る。「運転手さん、これで頼みます。」とっておきのタクシーチケットを1枚運転手に託す。
「あ、わかりました~。」タクシーの運転手は私達2人の状況を把握していたようだった。やはり客商売のプロには敵わん。
「じゃ、気をつけて。おやすみ。ちゃんと寝るんだよ。」
「は~い!おやすみなさ~い♪」。彼女は座席から身を乗り出すようにこちらを向いてずっと手を振っていた。顔も姿も見えなくなるまで。
そしてタクシーも見えなくなった。男版シンデレラの時間は終わった。少しの高揚感とたくさんの孤独感が私の中を渦巻いていた。
「また、連絡くれるのかな?」。彼女に手渡されたメモを握り締め、私は駅に向かって歩き始めた。歩きながら、彼女とどこかで出会ったような感覚と、懐かしさのようなものがどこからやってくるのかいつまでも考えていた。
(5)「蜜月」[前編]
それから数日。その間、彼女から連絡が来る事は無かった。「ああ、やはりレストラン前での最後は社交辞令だったか・・・まあ、そんなものだろう。あのときのトキメキ感は良かったし、楽しかった。会ったのが1回で丁度良かったのかもしれない。何回も会うと、情が入ってしまいそうだったしな。」
彼女の事が時間と共に消え去ろうとしていた。楽しかったあの2時間だけを残して。
また数日が経った。その頃には楽しかった2時間の事をたまに思い出しながら繁忙極まりない仕事の日々を送っていた。
昼休みだった。食事をしながら午後の会議の予定を見ようと、スケジュール帳代わりに使っている携帯電話を取り出してみると、携帯に1通のメールが届いていた。名前が出ていないので、アドレス帳にはない人からのメールらしい。「クリック詐欺かな?」と思いながらも、取り敢えずメールを開封してみた。
「・・・ナツミ・・・ちゃん。か?」。多分そうだ。貰ったメモはオフィスの引き出しにあるが、まだアドレス帳には登録していなかった。だが、うる覚えのアドレスと同じだと思った。少し驚いた。まさかメールが来るとは思ってもみなかった。
「マイルドセブンさん、おひさしぶりで~す。こんにちわ♪ またご飯に連れて行ってもらえますか? お返事待ってま~す♡」
また思い出が蘇ってきた。白い上着・黒のスカート・ピンクのバッグ・・・そして顔・・・またワクワク感が私を覆い包んだ。
すぐに返事を返した。「こんにちわ。この間はとても楽しかったよ。ご飯はいつでもいいよ。日にちと時間を決めたら、また連絡下さいね。」・・・半分盲目状態になっていた。すぐにでも会いたいと思った。”愛に国境と歳の差は無い”というのは、こういう事を意味するのだろうか?
返事が待ち遠しくなった。食事を終え、オフィスに戻った私は、携帯に彼女のメルアドと電話番号をインプットし、”業務課 夏見”と名前を付けた。
返事が来たのは、午後の会議中の時間帯だった。会議を終え、携帯の電源を入れると、メールが1通届いていた。彼女からだった。「今日、いいですか?何か急に会いたくなっちゃって・・・」。男心を擽るいい一行だ。今日の予定は、もう1本会議が終われば後は無い。午後7時には終わるだろう。「7時半でいいかな?場所はどうする?」。少し興奮気味だった。まだ1回しか会っていないのに、もう恋人気分モードに突入していた。
「じや、また”ジャミー”の横で待ってます♪ でも今度は違うお店に連れてってね♡ 食べたいものは会ってからお話しま~す!」。まるでミステリーツアーだな。ちょっとだけときめいていた心が一気に上昇した。もう周りは見えなかった。
「遅くなるようだったら、電話するね。じゃ、後で。」。返信し終わった私は平静を装いながらも一気に仕事を片付け、今日最後の会議に出席。予定通り7時に会議は終了し、オフィスに戻り書類をバッグに詰め込んでビルを後にした。
”ジャミー”には少し早く着いた。彼女がいないか、少し周りを見渡した・・・「居た!」。遠巻きながらも顔と体形でそう確信した。今日は少し大人っぽい格好だ。ベージュが基調の薄い花柄のワンピースか?この間よりも少し大人に見えた。少々うつむき加減で、時計でも見ているのだろうか。明らかに人を待っていると言う雰囲気だった。
私は思い切って少し大きめの声で「ナツミちゃん?」と声をかけた。「あ!ラークマイルドさん!」。彼女は嬉しそうな声を出し、小走りに駆け寄ってきた。
「早かったんですね。今日♪」。「うん。最後の会議が予定通りでね。今日はラッキーな日だ。ナツミちゃんにも会えたし。」。本心だ。
「ああ。で、食べたい物って?」。お腹も空いている事だろう。すぐに何処かに連れて行ってあげなければ。
「今日は・・・焼肉で~す!」。意外な答えだった。もっと他の洋食屋とかちょっと高めのレストランなどを考えていたのだが。
「本当に焼肉?」。
「はい!今日は焼肉!」。面白い娘だ。会話するたびに惹かれていく。もう15年くらい若くて独身だったら、と少々悔やんだ。
「じゃ・・・そうだな・・・あそこにしよう!」。行きつけではなかったが、そう高い店でもなく、味も良い。彼女も1回くらいは行った事があるかもしれないが、まあ、嫌だと言えば別の店にすればいい。
「ちょっと街の端だから、タクシーで行こうか?」。道路に身を乗り出し、手を挙げた。間もなく1台のタクシーが止まり、2人は乗り込んだ。
「7丁目の”昇龍苑”まで。」。タクシーは走り出した。会話は前回と似たようなものだったが、楽しかった。あっという間に時間が過ぎ、10分ほどで到着した道のりが2~3分に感じるほどだった。
どうやら彼女はこの店には来た事が無かったようだ。店構えは少々高級そうに見えるが、食事代はそう負担になるような店ではない。「何か、高級そう・・・大丈夫ですか?」。心配そうに私を見つめる彼女。「ああ、気にしないで。店はカッコよく見えるけど、普通の焼肉屋さんとかわりないから。さ、行こう!」
タクシーを降り、店に入る。店内の雰囲気は普通の焼肉屋とあまり変わりが無い。
「あ、何か、普通~♪」。彼女が笑った。私も釣られて笑った。席に案内され、水とメニューが渡された。
「ここでは、水、出たね。」。少しからかってみた。「水が出たほうが落ち着きます♪」。笑う彼女・・・会話が弾む。
「今日はビールでも飲んでみる?」。この間のロゼで大丈夫なら、ビールも多分大丈夫だろう。
「はい!ビール、飲みま~す!」。
程なく注文した肉や野菜・ビールが揃った。
「今日は何に乾杯ですか?」。彼女が聞いてきた。賢いな、この娘。まるで前回の食事の時の会話を全部記憶しているみたいだ。少し捻るか・・・いや、まともに行こう。正直な気持ちを言葉に乗せて。
「今日は2回目のご飯に乾杯だね。じゃ乾杯!」
「2回目に、かんぱ~い!」
(5)「蜜月」[後編]
また今日も楽しい時間だった。会社のストレスも家庭のストレスも全て忘れる。そして目の前には・・・
食事も終わり、店を出た。またタクシーを拾わねばと思い、道路の端に出掛かった時、「腕、組んでいいですか?少し一緒に歩きたいです!」と聞かれた。一瞬”ドキッ”とした。こんな事までしていいのだろうか。「腕を組んでの次は・・・」。邪念が脳裏を過ぎる。ここでおしまいにしておいた方がいいのか、それともこのお食事と腕組みだけの関係がずっと続くのか、それとも更に発展した関係になるのか・・・少し頭が混乱してきた。
腕を組み、少しゆっくり目に歩きながら色々な話をした。彼女の父は私と同じような仕事をしているらしい。生活の時間帯が合わず、数年同じ家の下にいながら、久しく顔を見てないそうだ。私も似たような立場だと話した。何か最初から懐かしいような感じがしたのは、家庭の事情が似ているのからだな。と、勝手に納得していた。
20分ほど一緒に歩いただろうか。気がつけば”ジャミー”の近くまで来ていた。もう時間もそれなりの時間だ。彼女を家に帰さなければならない。
「さ、そろそろカボチャの馬車の時間だよ。」。彼女を嗜め、タクシーを拾う。
「じゃ、また。連絡はいつでもいいから。今日も楽しかった。ありがとう。またね。」
「今日もすご~く楽しくて美味しかったです♪おやすみなさ~い♡」。前と同じだ。身を乗り出すようにいつまでもこちらを向いて手を振っていた・・・私もだ。そして見えなくなった。少しの虚脱感と寂しさが、また私の中で渦巻き始めた。
見えなくなって5分も経たないうちにメールが来た。「今日もありがとう♪ またご飯一緒して下さいね♡」。
すぐに返事を返した。「楽しかった。今日もありがとう。またいつでも連絡待ってます。」
・・・これを機会に、数日置きに食事をするようになった。
3ヶ月ほどこんな状態が続いていた。私には十分過ぎるほど楽しい日々だ。下心は無いと言えば嘘になるが、大きな期待はしていない。これくらいの関係が丁度良いと思っていた。
そんなある日、いつも通り昼前にメールが届いた。「今日もご飯いいですか~? 今日はスペシャルですよ~♡」。
「ん?」。スペシャルって・・・?
「スペシャルって、何かな?」。返信。
「ナ・イ・ショ♪ 会ってからネ♡」。慣れてくると少し言葉遣いも親しいものになってくるものだ。私は彼女の事を「ナツミちゃん」と呼ぶようになり、彼女は私の事を「ラークさん」と短縮して呼び合う仲になっていた。
今日の約束は6時半。いつもより早い時間だ。ナツミちゃんもいつも通り”ジャミー”の横に立っていた・・・いや、持ち物が少し違うか?今日はピンクのバッグではなく、少し大きめの紙袋のようなものを持っていた。
「今日は早いですね♪ いつもより早く会えて嬉しい!」。いつになく少々テンションが高めのようだ。
「で、今日はスペシャルって?」。未だに理解出来ていない。率直に聞いたほうがいいだろう。
「え~!!ラークさん、分かんないんですか?」。ちょっと怒った仕草を見せるナツミちゃん。
「うーん。会って50回くらいだから、それかな?」。思い当たるのはこれくらいしかない。
「ブブ~!ものすごく惜しいです!もう1回!」。ニヤニヤしながら私の顔を覗き込む。
「いや、ごめん。どうしても思いつかない。本当にごめんね。」。
「・・・本当に?」。
「うん。本当に。」。ナツミちゃんの顔が一瞬曇った。まずい。このシチュエーションでの「解りません」は、「別れて下さい」と同じくらい気まずい。1分ほど沈黙の時間が流れた。
「降参ですか~?」。その通り・・・少々怪訝そうなナツミちゃん。
「ごめんね。降参だ。」。正直に謝るしかないだろう。
「じゃあ、教えてあげる代わりに、私の言うこと聞いてくれますか?」。ドキッとした。一体何がスペシャルで、聞いて欲しいことは何なのだろう。まさかブランドのバッグとか・・・ちょっとそこまでは手が出ないな。しかし負けは負け。”王様ゲーム”の敗者の気分で聞くしかなかろう。
「ナツミちゃんの言うこと・・・聞くよ。で、正解は?」。
「正解は・・・、会って100日スペシャル~♪」。おお!計算してみれば、そうだ。確かに今日は100日目。
「あ~!そうだよね。3ヶ月ちょっとだった。気がつかなくてごめんね。何も用意してなかったよ。それで、聞いて欲しい事って?」。
「実は・・・」。ナツミちゃんも少し言いにくそうだった。正解ではなく、その先の話を。
「いいよ。解らなかった私が悪い。遠慮なく何でも言って。」。こうなったらグッチでもエルメスでもティファニーでも何でも来い!・・・現金は食事代+少々だが持っているカードはGOLDだ。何とかなるだろう^^;
「・・・お泊りの用意してきちゃった・・・へへへ♡」。黒い紙袋を両手で前に突き出し、少し恥ずかしそうな顔を隠すような素振りを見せた。
「それは・・・」。言葉に詰まった。そういう気持ちでナツミちゃんと食事の回数を重ねてきた訳ではないのだが。
「ダメですか~?やっぱり・・・」。いや、ダメじゃ無いんだが、心と体の準備が・・・数年ぶりになるし。少し悩んだ。が、私も男だ。約束は約束。
「いや、約束は約束でダメじゃないんだけど数年ぶりでそれで何と言っていいか話が突然でどうして話が・・・」。すっかりしどろもどろになってしまった私。気を取り直してもう一言。
「約束は守るよ。まずはご飯を食べに行こう。約束はその後で。必ず守るから。」。もう、いっぱいいっぱい。ちょっと”お泊り”の話から少し外そう。
「じゃ、今日は何が食べたい?」。結構そこそこ以上の店は回った。もうあまり残っていないが、もしかしてのもしかしてかも。
「じゃ、それも問題!分からなかったら、帰っちゃうかも・・・」。いや、それは分かった。間違いない。
私は”ジャミー”のドアを開け、「どうぞ。」と彼女を迎え入れた。ナツミちゃんの曇った顔が、一気に明るくなった。
「やった♪だから、ラークさんて、好き♡」。女心と秋の空・・・だったか。記念日には記念日の店がある。1回目がここなら、記念日もここしかない。そして2人で店に入った。
「注文した料理も同じくする?」。席に着いた私がナツミちゃんに聞く。
「なるべく同じのがいいです。でも無いときもあるんでしょ?」。
「うん。そうだね。でも任せて。大体同じにするから。いい?」。
「は~い♪お任せしま~す!」。どうやら機嫌は取り戻したようだ。
ボーイを呼んだ。「ご注文はお決まりでしょうか。」。
「セレクトで頼む。あと今日のお勧めとかあれば。後はワインなんだけど、7%のあったよね。」
「はい、かしこまりました。7%はロゼが数種類ございます。」
「そうか。じゃ、料理に合わせて適当なワインを。料理は○○と▲▲と・・・」
「かしこまりました。では、ワインを先にお持ちいたします。」
間もなくワインがやってきた。
「今日の乾杯は・・・」。と私が言いかけた時、「一緒にネ♪」とナツミちゃん。もう乾杯の言葉は決まっていた。
「100日目に、乾杯!」
・・・そしてその夜、私とナツミちゃんは深く結ばれる事となった。
(6)「ダブル・カウンター」[終]
充実した日々が続いていた・・・家庭の問題を除いては。
ある日、会社からの帰宅後に、妻と少々話す機会があった。娘の話だった。近頃服装も少々派手になり、帰りも午前様が多くなって来たそうだ。今日はまた「外泊!」と言って家を出たまま戻ってこないと言う。妻とあまり仲が良くないとは言っても、娘の事となれば話は別だ。取り敢えず詳しく話を聞き、「まあ、思春期だし、警察の厄介になっていないということは悪い事もしていないと言う証拠だろう。君の若かった頃と比較してごらん?時代が少しは変わったが、外出・外泊はそう変わらないだろう。」と宥めて、落ち着かせた。
少し落ち込んでいた妻の顔を何気なく見た。暫く真正面から顔を見た事が無かった。妻も少し歳を取ったな。化粧品には気を使っているのだろうが、それでも全ては隠せない。キャリアウーマン時代の張り詰めた雰囲気はもうそこには無かった。普通の「疲れきったおばさん」が居るだけだった。しわも少し出てきたようだ。髪の毛にも白いものが少し。
「明日も早いし、もう、寝るわ」。妻も少し落ち着いた様子だったので、床に就いた。
当然、ナツミちゃんとの交際は、まだ続いていた。
ある日、ホテルで事を終えた後に彼女から、「お小遣い・・・欲しいな♪」。と切り出された。こういう間柄の女性は往々にして男性に慣れて来ると、だんだん口の利き方が悪くなったり何かしらの要求が増えてくるものだ。皆がそうとは言い切れないが。
「お小遣い・・・か。」。少し躊躇したが、「いくら欲しいの?」。と聞いてみた。
彼女は指を3本立てて、「さん!」。と言った。「3?30万は無理だよ。」。「ち~が~う~!3万円♡」。
「3万か・・・」。出てきたな。ここで別れるのもいいチャンスだと一瞬考えたが、もう彼女のことを完全に好きになってしまっている。離れることはとうてい無理だ。
私は月の小遣いとサイドビジネスの株・FXの利益を考えていた。全て含めれば月8万は稼いでいるので、無理な額ではないが、これは月給なのか、1回なのか?月給にしては少なすぎるし、1回としては食事代も考慮すれば高い買い物だ。
「ラークさんはいつも美味しいご飯食べさせてくれるし、でも私も服とかアクセとか靴とか欲しい物いっぱいあるし・・・月に1回でいいからネ♪」。色目使いで斜め下から私の顔を見上げる。そう来たか。仕方が無い。それくらいなら何とかなるだろう。
「ん。分かった。その代わり、記念日以外はもう何も買ってあげられないかもしれないね。私の財布にも限界があるから。」
「・・・分かった♪だからラークさんって好き!ありがとう♡」。ベッドの上で無邪気に飛びついて来るナツミちゃん。
「これ以上は無理だゾ!」。一応釘を刺しておいた。
こんな関係が、更に半年ほど続いた。
ある日の夕方、妻からオフィスに電話が入った。珍しい事だ。何か事件でもあったのだろうか?
「ああ、私だ。何かあったか?」。受話器の向こうで鼻水をすすりながら嗚咽を繰り返す妻。どうやら大きな問題のようだ。
「・・・裕子がね・・・ひろこぉがあぁ・・・。」。言葉になっていない。裕子は私の娘の名前だ。まさか交通事故か?事件か?生きているのか?死んでいるのか?これは早退して家に戻った方が良さそうだ。
「今、帰るから。しっかりしろ!戻るまで家を出るな。」。それだけ伝えると、急いで帰り支度をし、上司に内線で許可をもらい、走ってビルを飛び出した。帰り道はとても長く感じた。
ようやく家に着いた。飛び込むように家の中に入り込んだ。居間のガラステーブルの横に座って、妻は泣き崩れていた。まだ、手に受話器を持ったままで。
「どうした。?何があった?」。妻に声をかける。
やや暫くして少しは気を取り戻したのか、だが、まだ嗚咽を繰り返しながら、私に長いライター状のようなプラスチックの棒を手渡した。
「うん?」。受け取った私は、それが最初何なのか気付かなかったが、眺めているうちにこの「事の」大きさに愕然とした。
棒の先の方に少々の凹みがある。そこに「+」というマークが出ていた・・・「妊娠検査薬」間違いなく妊娠だ。これは問題だ。高校生で妊娠とは・・・ことが大きすぎる。堕胎可能な半年以内ならまだ良いほうかもしれないが。それを祈るしかないだろう。
「裕子はどこだ?」。妻に聞いた。
「・・・私と言い合いに・・・泣きながら・・・出て行って・・・」。妻のショックは間違いなく父親以上だろう。全く想像が出来ない。とにかく裕子を早く探さないと。
携帯は電源を切ってあるようだ。何回かけても繋がらない。家内に、「友人の家に行っていないか確認を取ってくれ。いいな。居所が分かったら、すぐ連絡をくれ!」。と頼み、家を飛び出した。が、しかし思い当たる場所も、ましてやいつも遊ぶ場所や友人の1人も知らない。
住宅街をウロウロしても意味はなさそうだ。取り敢えずは街の繁華街を探し回る事にした。
街は人口20万クラス。繁華街とオフィス街を含め1丁目~10丁目まであるが、地図で見れば長方形に近い。メインの道路2本と中央には国道。横幅は3丁だ。裕子が街の中にいるならば、探すにはそう苦労はしないだろう。深夜まで見つからなければ、捜索願を出そうと考えていた。
ゲームセンター・喫茶店・ファミレス・雑居ビル・飲み屋街・・・2時間ほどで、人口密度の高い部分の3割くらいを探しただろうか。まだ影も形も見つからない。妻に電話をかけて確認を取ったが、どうやら気の知れ合った友人の所には行っていない様子だ。
気が付けば、陽もとうに暮れ落ち、時間も深夜に近くなってきた。
その時、私の携帯が、鳴った。ナツミちゃんからだ。「そんな場合じゃないんだがなぁ。」。と思ったが、ふと、思った。ナツミちゃんは若い。彼女にも事情を説明をすれば、何かの力になってくれるかもしれない。私の分からない、若い子が遊ぶスポットなどを知っているはずだ。
電話を取った。「ラークさん、今忙しいですか?」。妙に神妙な感じの声だった。
「うん。少し家で問題が起きてね。私もナツミちゃんに少し協力してもらいたい事があってね。ちょうど良かった。」
「ちょっとお話があるの。」
「分かった。今、何処?」
「3丁目の近くに・・・。」
「じゃ、4丁目の真ん中に喫茶店があるでしょ。そこで待っててくれるかな?」
「はい。待ってます。」
「10分で着くから、何か飲んで待ってて。」
電話を切って、すぐに4丁目の喫茶店に向かった。
店の前に着いた。店の窓越しにナツミちゃんの後姿が見えた。少しうつむき加減で背中が寂しそうに見えた。店に入る。
席に座り、ナツミちゃんの顔を見た。少し泣いたのか、目が腫れぼったかった。「どうしたの?今日は元気がないね。そうだ、話って何かな?私もナツミちゃんに頼みたい事があるんだ。」
ナツミちゃんは無言だった。そして黙って私にプラスチックで出来た棒状のようなものをゆっくり差し出してきた。
「・・・見て。」。彼女は私と目を合わそうとはしなかった。ずっとうつむいたままだ。
「あ!・・・」。思わず声が漏れた。
見た。確かに見た。数時間前に自宅で見た。全く同じ色・形・・・そして「+」の記号まで。
「に・・・妊娠したのか?」。しまった。避妊具は毎回忘れてはいなかったが、確率は”ゼロ”でない事は解っていたが。
ダブルショックだった。完全に頭の中が真っ白になった。
少し時間が流れ、何とか気を取り戻した。
「いつ分かったの?」
「・・・今日。」。涙目ながらにポツリと語り始めた。「私・・・定期的じゃなくって生理不順なんで暫く気が付かなかったんですけど、あまりにも来ないんで検査薬を買ってみたら・・・で、それをお母さんに見られて喧嘩になって・・・」。
「ん?」・・・何か背中に走るものがあった。話が全くと言っていいほど我が家の現在の事情にそっくりだった。
「私、子供生んでラークさんと一緒になりたいです!奥さんとも仲が悪いんでしょ!」。いきなりのカミングアウト。まてまて。まだこっちは家の事が優先でそういう事は考えてもみなかったし、想定外の話だ。
「お互いあだ名だけで呼び合ってて、急にそういわれても・・・もっとナツミちゃんのことを知らないと。」
「じゃ、何を話せばいいんですか?」。食って掛かるような態度だ。相当本気モードのようだ。
「それじゃ、本名を聞かせて欲しい。もしかの時はナツミちゃんのお父さんやお母さんにご挨拶に行かなきゃならないからね。」
彼女は暫く黙っていた。が、意を決したように本名を私に告げた。
「・・・ひ・・・ひろこ・・・吉田裕子!」
「ドン!」と音を立て、時間が凍った。口さえも開く事が出来なかった。全てが終わったと感じた。
目の前には”ナツミ”と名乗っていた私の愛人、いや、娘の裕子がいる。妊娠させた相手は私だった。
「・・・ラークさんの本当の名前は?」。娘に聞かれた。だが答えられるはずもなかろう。答えられない。
私はいつまでもその問いに答えられずに目前の愛娘の瞳の中を見続けていた。