第四話 中間テスト間近 優等生の里加子ちゃんちで勉強稽古
翌朝、旅行明け月曜日、七時五〇分頃。鬼柳宅。
「ぅおーい、梶之助ぇ。久し振りの特製ドリンクじゃ。飲んで背ぇをぐんぐん伸ばせ。骨を丈夫にするゼラチンもたっぷり入っておるぞ」
「だからいらねえって」
梶之助は先週の金曜日以来三日振りに特製ドリンク(今日はシソとサクランボと枇杷とクラゲのミックスジュース)を振舞われ、即効流しに捨てる。五郎次爺ちゃん拗ねて寝込む。そのあと喜咲が迎えに来て、二人はほぼいつも通りの時刻に登校。
普段通りの日常が戻って来た。
八時二〇分頃、淳ノ丘高校一年二組の教室。
「おっはよう! 秋帆ちゃん、里加子ちゃん」
「おはよう、喜咲さん、元気ね。わたし、筋肉痛が」
「おはよう、キサキちゃん。ワタシも筋肉痛だよ。今日のダンスはつらそうだよぅ」
里加子と秋帆も普段通りの時間に登校していた。
「私は全然平気だよ。二人とも運動不足だね」
喜咲は爽やかな表情で言った。
「やっぱ普段からトレーニングしてる子は違うわね。さてと、中間テストまであと四日しかないし、旅行から気持ちを切り替えなきゃね。今日からテストが終わるまで、放課後毎日わたしんちで一緒に勉強会をしませんか? みんなでやると、勉強がより一層捗そうなので」
「それはいいね。ワタシのお部屋は誘惑が多過ぎるし」
「里加子ちゃん、関脇級のグッドアイディア」
里加子の誘いに、秋帆と喜咲は快く乗った。
「やぁ、梶之助殿ぉー。おいらまだ旅行の疲れが抜けないぜ。特に筋肉痛が。歩き過ぎたせいだな」
「ボクもただ今筋肉痛でありますぅ」
光洋と秀平も若干疲弊した表情を浮かべながらもほぼ普段通りの時刻に登校してくる。
「おはよう光洋、秀平。俺も筋肉痛だ。柔道着は持って来たけど、今回も柔道見学しようかな」
「おいらもそうしよっと」
「鬼柳君、大豊君、サボり過ぎると、夏休み補習になっちゃうよーん」
男子三人でそんな会話をしていたところへ、
「あのう、梶之助さんも、わたしんちでの勉強会のご参加お願いします」
里加子が近寄って来て話しかけてくる。
「まあ、家では五郎次爺ちゃんが相撲の話ばかりして来て鬱陶しいからな」
そんな理由で、梶之助は参加することにした。
「光洋さんと秀平さんも、もしよかったら来て下さいね」
「おいらはやめとく」
「ボクも、余計に効率が下がりそうですしぃ」
里加子は誘ってくれるも、光洋と秀平は即、きっぱりと断った。
「そう言うと思ったわ。それじゃ、他の皆はわたしんちに五時頃に来てね」
☆
約束した午後五時頃。
「こんばんはー、里加子ちゃん」
「こんばんは、来たよ」
「どっ、どうも」
喜咲、秋帆、梶之助の三人は一緒に二星宅を訪れた。
「いらっしゃーい」
里加子が三人の前に姿を現した瞬間、
「うわっ!」
梶之助は思わず仰け反った。
「あっ! ごめんなさーい、梶之助さん。見苦しい姿をお見せしてしまって。わたし、お風呂上りはいつもしばらくこんなはしたない格好だから。すぐに上着着てくるね。皆さんリビングで待ってて」
里加子は水玉模様のショーツと、真っ白なブラジャーだけの下着姿だったのだ。そんな彼女はそそくさと脱衣場へ戻っていく。
訪れた三人は、里加子に言われた通りリビングへ向かい、ローテーブル横のソファに腰掛けて待つことにした。
「お待たせー。皆さんも、もし良かったらお風呂どうぞ」
ほどなくして、里加子はパジャマ姿でリビングへやって来る。
「ワタシはべつにいいよ。汗そんなにかいてないし」
「私もー。まだ真夏じゃないからね」
「そっか。梶之助さんは、どうですか?」
「俺もいいよ。というか、女の子のおウチでお風呂をいただくのは気が引けるし」
梶之助は即拒否する。
「お風呂入った方がさっぱりした気分で勉強出来ると思うけどな。それじゃ、勉強会を始めましょうか」
里加子は笑顔で告げる。やる気満々な様子だった。
「そういえば、そろそろ前頭上位の取組が始まる頃だね。えっと、リモコン、リモコン」
喜咲はふと思い出す。今ちょうど大相撲夏場所二日目のテレビ中継がされている時間帯なのだ。
「喜咲さん、勉強会中にテレビとスマホは禁止よ。リモコンは事前に隠しておきました」
里加子は笑みを浮かべ、きっぱりと言い張った。
「あーん、いじわるぅ。取組結果がすごく気になるのにぃ」
「結果は後からでも分かるでしょ」
「リアルタイムで知りたいのにぃ。結果が気になって勉強に集中出来ないよぅ」
「結果を知ったら喜咲さん興奮して余計に集中出来なくなるでしょ。この誘惑に打ち勝つことも、精神修行になるわよ」
嘆く喜咲に、里加子は得意顔で説得し続ける。
「もう、分かったよ、結果は後で見るよ。今度の中間も、秀ちゃんはまた学年トップ取るんだろうな」
喜咲は勉強道具を取り出しながら、羨ましそうに呟く。
「わたし、中学時代は秀平さんに総合得点で一度も勝てなかったよ。あの子のせいで万年二位だったの。今度の中間ではわたし、秀平さんに勝って、初の学年トップを目指すよ!」
里加子はきりっとした表情で宣言した。
「秀ちゃんは今年の淳高一年生の学力の横綱だね。あり得ないけど、私が秀ちゃんに勝てたら大金星どころか、新弟子検査受けたばかりの子が真剣勝負で横綱に勝っちゃうくらいの大波乱だよ」
「秀平は小学校の時から数学は高校レベルのやつを解いてたからな。俺は、中間は総合五〇番以内を目標にしてる」
「ワタシもカジノスケくんと同じ目標だよ。いっしょに頑張ろうね」
「梶之助くんと秋帆ちゃんも志し高いね。私は赤点回避が目標なのに。職員室に忍び込んで問題を盗めたら簡単に点取れるのになぁ」
喜咲は残念そうに呟く。
「喜咲さん、そんなことしたら退学になるわよ。試験は正当な方法で臨まなきゃ」
里加子は険しい表情になった。
「冗談だって。里加子ちゃんも京大志望なだけに不正行為に関しては厳しいね」
「じゃあ、まずは確認するね。皆さん、テスト範囲のプリントは全部揃ってる? 足りないのがあったら、コピーしてあげるよ」
「俺は全部揃ってるよ」
「ワタシもー。ちゃんと科目毎にファイルにまとめて保管してる」
「梶之助さんと秋帆さんは予想通りきっちりしてるわね。喜咲さんはどうかしら?」
「私ももちろん全部揃ってるよ」
喜咲はそう答えると、鞄の中からファイルを取り出した。彼女も秋帆が伝えたことと同じように、科目毎にきちんと分けられ計九冊あった。
「あら、本当? 今までそんなこと一度もなかったのに。それにしても全科目分持って来たのね」
里加子は一冊ずつパラパラッと捲って確認してみる。
「本当だ。一枚も抜けがないわ」
約二分半で作業終了後、かなり驚いていた。
「ちゃんと整理整頓出来るようになってえらいでしょう? 空欄も全部埋まってるよ」
喜咲は得意げになる。
「確かにね。でもそれは梶之助さんが管理してくれたからでしょ?」
里加子はにこやかな表情で問いかけた。
「ちゃんと自分でやったよ」
喜咲は自信満々に言うが、
「ほとんど俺のやつを丸写ししてたよ」
梶之助は呆れ顔で事実を報告しておいた。
「やっぱりね。板書は全部ノートに写せてる?」
「そりゃあもちろん」
「これも梶之助さんのおかげなんでしょ?」
「その通り!」
次の質問には、喜咲は開き直って堂々と答えた。
「そんなやり方じゃ自分の力にはならないわよ。喜咲さんがやってることは、稽古サボってる力士が一生懸命稽古に励んでる他の力士を眺めてるだけで、自分も猛稽古して強くなったと勘違いしてるようなものだからね」
里加子はため息交じりに忠告する。
「里加子ちゃん、上手い例え方だね。でも私、数学だけは自分の力じゃどうしようもない。考えて解くのが横綱級に面倒くさい」
しかし喜咲にはあまり効果は無かったようだ。
「キサキちゃんの数学嫌いは、幼稚園時代の数のお稽古の頃から来てるもんね」
秋帆は微笑みながら突っ込んだ。
「えへへ。私、相撲の稽古は大好きだけど、数の稽古は大嫌いだよ」
喜咲は照れ笑いする。
「喜咲さんは数学のお稽古を重点的にやっていく必要があるわね。わたし、今度の中間テストの予想問題を作ってあげたよ」
里加子はそう伝えると、自作の数学演習プリントをローテーブルの上にポンッと置く。
数学Ⅰと数学A、中間テストでは別の日程で組まれているがここでは両方ミックスさせていた。問題用紙と解答用紙の計二枚。
「里加子ちゃん、私のためにわざわざ作ってくれたの! ありがとう」
喜咲は嬉し涙を浮かべ、里加子の体にぎゅっと抱きつく。
「きっ、喜咲さん、お礼はいいから、シャーペン持ってさっさと解き始めて」
里加子は照れ隠しをするように命令した。
「分かった。頑張るぞーっ!」
喜咲は気合十分だ。
「リカコちゃん、ワタシもそれ、やりたぁい。ワタシも数学あまり得意じゃないから」
「俺も、やるよ」
「素晴らしい心構えね。それじゃあ、このプリント、コピーしてくるね」
里加子は嬉しそうにそう言うと二階自室へ向かっていく。三分ほど後、コピー四枚の計六枚を持って戻って来た。
「解き方を間違えたり、制限時間内に正解に辿り着けなかったりしたら、これで背中を叩くよ」
里加子はさらりと言う。
もう片方の手に、剣道で使われる竹刀も装備していた。里加子が中学の頃、選択武道の授業で使用していたものだ。
「それは恐ろしやー。里加子ちゃんまるで相撲部屋の親方みたいだよ」
「ワタシ、真剣にやらなきゃ」
「緊張感があるね。俺もケアレスミスしないように慎重に解こう」
三人はシャープペンシルを手に取る。
「それじゃ、始めてね」
里加子からのこの合図で、三人は問題を解き始めた。
「いったぁーい! 答え合ってるはずなのにぃ」
五分ほどのち、喜咲がパチーンッと叩かれた。
「確かに答えは合ってるよ。でも、導き出すまでに時間がかかってたら無意味よ。大学入試では制限時間内に数多くの問題をこなさなきゃいけないんだから」
里加子は厳しい表情で忠告するや否や、
「きゃぁんっ!」
「うわっ!」
今度は秋帆と梶之助の背中をパチンと叩いた。喜咲にした時よりは手加減していたように見えた。
「秋帆さんも梶之助さんも遅いっ。問い一は五分が目安よ。もっと手際よくパッパッパッと解かなきゃ!」
里加子は凛々しい表情で学習塾の熱血指導型の先生のごとく注意する。
三人は、その後も少しびくびくしながら引き続き問題を解いていく。
そして開始から四五分後。
「はいそこまで! シャーペン置いてね」
里加子は終了の合図を出した。
「私、半分くらいしか解けなかったよ。問題数多いよね」
「俺もあと二問まるまる残ってる」
「ワタシはあと三問だ。リカコちゃんのせいのような……」
あのあとも梶之助は二回、秋帆は三回、喜咲は十数回里加子に背中を叩かれた。
里加子は赤ボールペンを手に取り、困惑顔を浮かべながら三人の答案を採点していく。
「喜咲さんは四一点、秋帆さんは六七点、梶之助さんは七三点ね。三人とも正答率は高いけど解くのが遅いのが勿体無いわ。皆さんは小中学校の時、計算ドリルとか数学の問題集とか、いつも自分の力で真面目にやってた? 分からない問題は答えを写さずに自分で一生懸命考えて解いてた?」
里加子からされた質問に、
「いやぁ、私いつも答え丸写ししてたよ」
「ワタシも分からない問題はけっこう写してたなぁ」
「俺も同じだ。いくつかわざと間違えたりしてた」
三人はやや申し訳なさそうに答えた。
「やっぱり。それも、宿題で出された時だけでしょ? 宿題に関係なく、ドリルや問題集を自分の意思で繰り返し解こうとはして来なかったでしょ?」
「そうだねぇ。宿題に出てないのに、わざわざやろうとは思わないよ」
「ワタシもキサキちゃんと同じ」
「俺もだ」
「それが、あなた達の計算スピードが遅い原因よ。小中学校の頃からの計算練習の累積量がまだ足りてないと思うの。数学は反復練習の積み重ねで差が付く教科だからね」
里加子はおっとりした声でありながらも、厳しく忠告する。
「里加子ちゃんの言うことはごもっともだよ。お相撲の稽古と同じだね」
「俺も今になって、中学の頃あまり数学の勉強しなかったことちょっと後悔してる。テストはいつも九〇点以上取れてたから数学得意だと思ってたけど、高校レベルでは通用しないみたいだね」
「ワタシも、数学は高校レベルになってちょっと躓いちゃったよ。これからもっともっと難しくなって来るし、ついていけるか不安だよ」
「大丈夫よ。今からでも数学の問題練習を毎日しっかり続ければ、計算スピードが養われて併せて見たことの無いようなタイプの問題にも、焦らず落ち着いて対応出来る直観力や思考力も高まるから。自然と一夜漬けみたいな一時凌ぎじゃない本当の実力がついて、模試やセンター試験、国立大二次試験レベルの問題でも高得点が狙えるようになるよ。それが、他の科目のさらなる成績アップにも繋がっていくの」
里加子は三人に向かって優しく微笑みかけ、ウィンクした。彼女は、高校レベルの数学は秀平と同じくすでに全範囲マスターしているのだ。
「ワタシ、頑張るよ!」
「私も数学の稽古はこれから毎日続けるよ」
「俺も頑張ろう」
三人の向上心は、ますます高まる。
「その調子よ。家に帰った後も、もう一度数学の問題集を何題か自力で解いてみてね」
里加子は、励ましの言葉を送ってあげた。
こうして今日の勉強会は終了。三人は二星宅をあとにし、自宅へと帰っていく。
☆
夜十時過ぎ、南中宅。
喜咲はお風呂から上がると、機嫌良さそうに自室へ。普段はベッドに寝転がって絵本や児童文学書を読むのだが、
「頑張らなきゃ! お相撲さんだって日々稽古に励んでるもんね」
今日はまっすぐ机に向かって、苦手な数学の勉強をし始めた。
それでも就寝前のトレーニングは欠かさなかったが。
翌日から、二星宅での勉強会は喜咲の提案により勉強稽古と称するようになった。
四人は特に反復練習が物を言う数学と英語を重点的に勉強していく。
テスト前日には、授業が四時限目までだったため勉強稽古は午後一時半頃から開始。明日組まれてある化学の勉強を一通りこなした後、里加子は同じく明日組まれてある数学Ⅰの彼女自作予想問題を前回と同じ制限時間で三人に解かせてみた。
「秋帆さんは八三点、喜咲さんは五九点、梶之助さんは八七点か。稽古の成果が出て来たね。本番もこの調子で頑張ってね」
里加子はとても機嫌良さそうにエールを送る。
「もちろん一生懸命頑張るよ」
「任せて里加子ちゃん。私、六〇点は超えて見せる!」
「俺は、九〇は狙うつもり」
三人は自信満々に宣言した。
☆ ☆ ☆
迎えた金曜日、中間テスト初日。淳ノ丘高校一年二組の教室。
「梶之助殿ぉ、昨日は勉強したか?」
「まあ、一応ね」
朝八時一五分頃に登校して来た梶之助は、出席番号通りの席に着くなり光洋から話しかけられた。光洋は中学の頃から、テスト期間中だけはいつもより早めに登校して来ているのだ。
「やるなあ。おいら、昨日は全然勉強出来んかったぜ。帰ってからファ○通とチャン○オン読んで、深夜アニメの録画見て、深夜は深夜でリアルタイムで2ちゃんねるのアニ関実況スレと併せて見て。木曜深夜は多いからなぁ」
光洋はにこにこ笑いながら報告する。
「やっぱ誘惑に負けたのか」
梶之助は呆れ返った。
「それはボクも同じでございます。昨日の帰りに購入してしまったG○文庫の新刊三冊、ついつい読み漁ってしまいましたよん」
秀平は登校してくると、苦笑いを浮かべながらこう伝える。
「とか言って、どうせまた学年トップ取るんだろ」
光洋は笑いながら問う。
「微妙ですねー。この高校、周りの学力水準がすこぶる高いですしぃ」
秀平は表情変えぬままこう答えて、自分の席へと向かっていく。
同じ頃、里加子、喜咲、秋帆の三人も近くに寄り添っていた。
「喜咲さんは、昨日帰ってからはちゃんと勉強しましたか?」
「いやぁ、それが、数Ⅰの問題解いてたつもりが、いつの間にかバラエティ番組に浸ってたよ」
「やっぱり。中学の頃と全く変わってないわね」
里加子は呆れ顔。
「ワタシも、そんなにはしてないよ。いつの間にかマンガに手が伸びてたー」
秋帆はにこやかな表情で打ち明ける。
「秋帆さんまで」
里加子はさらに呆れてしまう。
けれども喜咲も秋帆も口ではああ言いながらも、数学Ⅰは思ったよりは手ごたえがあったようなのだ。
初日の日程が終わると、例の四人は二星宅へ集い数学Aと英語、そして来週月曜に行われる古文と現代社会に向けて勉強稽古。
梶之助、喜咲、秋帆の三人は土日も二星宅に集い、里加子と一緒に勉強稽古を行ったのであった。
「里加子ちゃん、そろそろ十両の取組が始まるから私もう帰るね」
「待ちなさい! 喜咲さん。今日のスケジュールまだまだ残ってるでしょ」
午後一時頃から夕方六時半頃まで。
※
次の火曜日。中間テスト三日目終了解散後、光洋、梶之助、秀平の三人は近くに寄り添う。
「今日は二〇日だよな。梶之助殿、ドラ○ンマガジンとファ○タジア文庫の新刊、今日発売だから駅前の本屋まで一緒に買いに行こうぜ」
「光洋、あと一日だけなんだし、終わってからにしたらどうだ。今日買うと、絶対内容が気になってテスト勉強に集中出来なくなるぞ」
光洋の誘いに、梶之助は眉を顰めた。
「おいらは明日の英語と数A完璧に捨ててるし。おいら目当てのやつは人気作だから明日には売り切れるかもしれないぜ」
けれども効果なし。光洋の意思は全く変わらず。
「そういうのはたくさん入荷されるから、むしろいつでも手に入れ易いだろ」
ほとほと呆れ果てる梶之助に、
「あの、鬼柳君。ボクも、いち早く読みたいですしぃ。一緒に買いに行きましょう」
秀平も申し訳無さそうにお願いしてきた。
「……秀平まで。それじゃあ、行くか」
梶之助は五秒ほど悩んだのち、こう意志を固めた。
その時、
「コラーッ! 梶之助くん、遊びの誘いに乗っちゃダメでしょ!」
背後からこんな声。
「!!」
梶之助はビクッと反応する。
声の主は喜咲であった。
「遊んでても余裕な秀平さんはともかく、光洋さんは、赤点取っても知らないよ」
「コウちゃん、シュウちゃん、テスト期間中に遊んじゃダメだよ」
里加子と秋帆から注意されると、
「分かりました。明日、テスト終わってからにします」
「申し訳ないでありますぅ」
光洋と秀平は俯き加減になり、素直に従う返事を返した。
「梶之助くん、こんな悪い子達は放っておいて、私達と勉強稽古だよ。梶之助くんが今やろうとしてたことは、お相撲さんが本場所中に稽古をサボることと同じことなんだよ」
「わっ、分かってるって」
こうして梶之助は今日も二星宅へ。
今日は三人、英語と数学Aの里加子自作予想問題を解いていった。
里加子によって採点された結果、英語は秋帆八四点、喜咲五七点、梶之助八一点。数学Aは秋帆八六点、喜咲五四点、梶之助八九点を取得。
この三人はおウチへ帰った後も、里加子に忠告されたように英語と数学の予想問題をもう一度自力で解き直し、明日に備える。
もちろん里加子自身も、夜遅くまでしっかりテスト勉強に励んだのであった。
☆ ☆ ☆
中間テスト最終日。
「やっとテスト終わったぁ! 土日挟んでたからめちゃくちゃ長かったよな。これで思う存分遊べるぜ。梶之助殿、このあとテスト終了祝いにポンバシ行こうぜ」
最後の科目、数学Aのテストが終わり回収された後、光洋は梶之助の席を振り向き、陽気な声で話しかけてくる。
「おーい光洋、またすぐに期末がやって来るぞ」
梶之助は呆れ顔で突っ込んでおいた。
「喜咲さん、秋帆さん、数Aのテストはどうでしたか?」
「思ったよりは、出来たかな? でも問い5と6は白紙。横綱級の難しさだったよ。まあ、五〇点以上は取れると思う」
「ワタシは、数Aは八〇くらいは取れそうだよ」
里加子、喜咲、秋帆も近くに寄り添いおしゃべりし合っていた。
今日から部活動も再開。帰りのホームルームが終わり放課後、この三人は嬉しそうに文芸部の部室へと向かっていく。
「そういえば、里加子ちゃんが応募しようとしてるラノベの新人賞の〆切って、今月末だったよね? 原稿は進んでる?」
「いやぁ、あれからまだほとんど書いてないよ、ストーリーが思い浮かばなくて」
喜咲の問いかけに、里加子は苦い表情を浮かべながら答えた。
「三百枚も書くのは気が遠くなるよね」
秋帆は同情した。
「うん。あの賞には今回は見送るつもり」
「文章を書く能力、里加子ちゃんはまだ応募以前の三段目レベルだね。私は序ノ口だけど」
喜咲はにこにこ笑いながら言って、絵本作りに取り掛かる。
梶之助は、光洋と秀平に誘われ仕方なくポンバシ巡りに付き合ってあげたのであった。
☆
「ただいまー。ん?」
その日の午後五時頃に梶之助が帰宅すると、玄関先に見慣れない革靴があった。
(このでかさは……)
サイズは、三〇センチ以上はあった。
梶之助はわくわくしながら茶の間へと向かう。
「よう、梶之助君。久し振りじゃな」
「やっぱり慶一爺ちゃんか。どうしたの? 急に」
「五郎次の孫の顔が急に見たくなってのう。梶之助君は、高校生になったんじゃな?」
「うん」
「今、身長はどれくらいなんかのう?」
「一五四センチ、だけど」
「そうか、そうか。まだまだ相撲を取るにはちっちゃ過ぎるが十数年前、若貴ブームが去ってからは新弟子検査の基準が緩うなって、一六七センチあれば入門出来るようになったからのう。どうじゃ梶之助君、頭にシリコーンを埋めてみんか? 昔、大受や舞の海が新弟子検査を受ける時にやっておったろう。一五センチくらいはかさ上げ出来るぞ」
慶一爺ちゃんは豪快に笑いながら、おっとりとした口調で勧めてくる。
「誰がやるか。ていうかもう禁止されてるだろ」
梶之助は呆れ気味に言った。
慶一爺ちゃんはとにかく大柄なのだ。背丈は二メートル近くある。加えて恰幅も良く、体重は一五〇キロくらいはあるものと思われた。ただ、光洋のようなぶよんぶよんした体つきとは異なり、かなり引き締まって筋肉質だ。さらにとても九九歳とは思えない若々しさを保っており、五郎次爺ちゃんよりもずっと若手に見える。
「梶之助も僕に似てしもうて、一五を過ぎてもこの有様なのじゃよ。僕の作った特製ドリンクで大きくしてやろうと思っとるんじゃが、梶之助は全然飲んでくれなくて困っておるのじゃ」
五郎次爺ちゃんは苦々しい表情で慶一爺ちゃんに相談する。
「そりゃぁそうじゃろう。あんなワシの玄孫娘が大好きなド○えもんに出てくるジャイアンシチューみたいな物、飲めるはずはないべ。飲んだら背が伸びるどころか、腹を下す。体重減る」
慶一爺ちゃんはきりっとした表情で意見した。
「さすが慶一爺ちゃん、常識人だな」
梶之助は感心する。
「僕、カルシウムがいっぱい摂れるように一生懸命考えておるのじゃがのう」
五郎次爺ちゃんは納得いかない様子だった。
「五郎次よ、カルシウムをようさん取ったら背が伸びるというのは、とっくの昔に嘘だということが分かっておるのだぞ。ちゃんと日頃から雑学文庫を読め。梶之助君の背が低いのは五郎次の遺伝子を受け継いでいるからなのじゃからもう諦めろ」
慶一爺ちゃんはにこにこ快活に笑いながら忠告する。
「やはり梶之助も、慶一兄さんみたいなたいそう大柄な人間には育たんのか」
五郎次爺ちゃんはため息混じりに言った。
「五郎次よ、気にするな。ワシですら、江戸時代生まれのご先祖様に比べれば小兵扱いなのじゃ。江戸時代生まれの鬼柳家男子は皆、七尺をも超えておったそうじゃからのう。ワシの若い頃は、鯖折り文ちゃんのあだ名で親しまれておった、出羽ヶ嶽文治郎というワシよりもでかい二メートル六センチの幕内力士もおったぞ。昭和二十年代に活躍した不動岩三男はもっとでかかったな、二メートル十四センチあったべ。三段目止まりで終わったが、昭和の初め頃にはさらにでかい二メートル十七センチの白頭山福童というのもおったなぁ。話は変わるが梶之助君には、喜咲ちゃんという相撲の強ぉい女の子がおったな。また会ってみたいのう」
「それじゃ、呼んでみるね」
慶一爺ちゃんに懐かしむような声でお願いされると、梶之助はさっそく喜咲のスマホに連絡する。
『慶一お爺様が来てるの! すぐに行くよっ!』
喜咲はかなり興奮気味な様子だった。
電話を切ってから、二〇秒くらいで鬼柳宅茶の間にやって来た。
「慶一お爺様ぁ! お久し振りです。お正月の時以来ですね」
喜咲は甘えるような声を出し、慶一爺ちゃんにガバッと抱きつく。
「おう、女子高生になった喜咲ちゃん。前に会うた時と比べてあんまり大きくはなっておらんが、この間の女相撲大会で準優勝して、相撲は一段と強くなったようじゃのう。喜咲ちゃんが鬼柳家の男子でないことは非常ぉに惜しまれるべ」
慶一爺ちゃんは喜咲の尻の辺りをさすりながら褒める。そのスキンシップのやり方は五郎次爺ちゃんにそっくりだ。
「もう、慶一お爺様ったら。五郎次お爺様なら投げ飛ばすところですが、慶一お爺様は無理ですね。全く動きません」
喜咲は幸せそうににっこり微笑む。六時頃まで三人と一緒に大相撲夏場所観戦を楽しんだ後、自宅へ帰っていった。
六時半頃、寿美さんが帰ってくると夕食の準備が始まる。
権太左衛門は、今日は職員会議で遅くなるから夕飯はいらないということであった。
七時頃から慶一爺ちゃんを交えての賑やかな夕食会が始まる。
その最中に、ピンポーンと玄関チャイム音。
「梶之助殿ぉー」
それと共に、光洋の声が聞えて来た。
「俺が出るよ」
梶之助が玄関先へ。
「これ、おいらの父ちゃんから」
光洋は枇杷を届けに訪れて来たのだ。
「もうそんな季節か、サンキュ。ありがたく頂くよ。それよりどうした光洋、今にも死にそうな声を出して、顔色も悪いぞ」
梶之助は心配そうに問いかけた。
「おいら、中間で一科目でも赤点があったら、相撲部屋に強制入門させられるんだ。おいら、母ちゃんと父ちゃんからそれ聞かされた瞬間、顔が真っ青になりそうになってんって」
「……そうなのか。そりゃ災難だな。高校辞めさせられて相撲界に入れられるって可哀想過ぎる。いまどき力士になるにしたって大卒だろ」
光洋からされた突然の報告に、梶之助はかなり同情出来た。
じつは光洋は、中学を出たら角界に入ることを両親から強く薦められていた。彼が今、淳ノ丘高校に通えているのは中三の時の担任が高校には絶対進学させた方がいいと両親を説得した経緯があったからなのだ。光洋の父は、今は果物屋さんの店主だがかつては大相撲の力士だった。現役時代の最高位は三段目とあまりパッとしなかったこともあり、息子の光洋には自分よりも上の番付まで上がって欲しいと願っているそうである。
「おいら、力士なんて全くなる気ないって」
「ようするに、赤点が一つも無けりゃ大丈夫ってことだろ」
梶之助は慰めの言葉を掛けてあげた。
「そうやけど、おいら、化学と古典と数学と英語がかなりやばそうやねん」
「まあ、悲観的にならずに結果が出てから考えろ」
梶之助は優しくこうアドバイスしていると、
「光洋君が角界入りするだとっ!」
五郎次爺ちゃんが茶の間から廊下に出て、すごい勢いで玄関先へ駆け寄って来た。
「きみが光洋君か。話は五郎次と梶之助君から聞いておったぞ。本当に立派な体格だなぁ。これは良い逸材だ。声も力士っぽいしのう。テストで赤点取ったらご両親の意向で角界へ放り込まれるんだってな。そんなの関係なく入門しろ。このまま平凡な高校生にしておくのは非常ぉに勿体無いぞ。きみは第六七代横綱武蔵丸と同じ名なのだから、きっと横綱になれる! さっそくワシの知り合いの親方を紹介してやろう」
慶一爺ちゃんものっしのっしと歩み寄ってくる。
「うわぁぁぁっ、でけえええええぇぇっ!」
光洋は思わず仰け反った。大柄な光洋ですら見上げるほどなのだ。
「こちらは、体格が全然違うけど五郎次爺ちゃんのお兄さんなんだ。慶一爺ちゃん」
梶之助は慌てて紹介する。
「ワシは光洋君の角界入りを全力で応援するぞ!」
「待て、慶一爺ちゃん。どう考えたって光洋が角界でやっていけるわけないだろ。光洋は遊園地のお化け屋敷にも入れないほど臆病なやつなんだ」
「いやいやー、角界に入れば光洋君の臆病な性格も絶対直るはずじゃ」
梶之助の必死の訴えを、慶一爺ちゃんはほんわかとした表情で反論する。
「僕も同意じゃ。さっそく今からテストの点に関係なく光洋君を入門させるよう、ご両親を説得しに行かねば」
五郎次爺ちゃんは強く賛同した。
「おいおい、味方になってやれよ」
「梶之助よ、僕に意見するのは僕に相撲で勝ってからじゃな。今から僕と相撲を取ろう。それで僕が勝ったら即、光洋君のご両親を説得しに行く!」
五郎次爺ちゃんは機嫌良さそうに言う。
「さすが五郎次、ナイス提案じゃ! いざこざは相撲で決着をつけるのが鬼柳家流の解決方法じゃからのう」
慶一爺ちゃんはパチパチと拍手し、褒め称えた。
「かっ、梶之助殿ぉぉぉぉぉ。お願いだぁぁぁ。絶対、勝ってくれぇぇぇー」
光洋に青ざめた表情で頼まれる。
「大丈夫だよ光洋、五郎次爺ちゃんには勝てるさ」
梶之助は自信満々な様子だった。
「前に対戦した時は、負けたではないか」
五郎次爺ちゃんは大きく笑う。
「まだ俺が一三〇センチくらいしかなかった小六の時の話だろ。俺はその時より体はずっと大きくなってるし、五郎次爺ちゃんは年食ってるし」
「梶之助、四の五の言う前にさっそく勝負じゃ! 僕は本気じゃぞ」
こうして梶之助、五郎次爺ちゃん、そして慶一爺ちゃん、寿美さん、光洋の五人が離れの相撲道場へ。
「五郎次お爺様と梶之助くんが相撲を取ると聞いて、飛んで来ちゃった♪」
喜咲も観戦しに来た。あのやり取りのあと寿美さんが彼女のスマホに連絡したのだ。
今回は寿美さんが呼出。喜咲が行司をすることに。
慶一爺ちゃんと光洋は座敷で見物。
「ひがあああしいいいいい、あやあああがわあああああ、あやあああがあああわあああああ。にいいいしいいいいい、たにいいいかぜえええええ、たあああにいいいかあああぜえええええ」
寿美さんは相変わらずの美声を発しながら、独特の節回しで四股名を呼び上げた。
梶之助と五郎次爺ちゃんはそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。
五郎次爺ちゃんの四股名は、二代横綱そのままの『綾川』だ。
梶之助は以前喜咲と対戦した時と同じくトランクス一丁。五郎次爺ちゃんは本気モードなようで、黄金色のマワシを締めていた。
仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。
「五秒で片付ける!」
梶之助は強く宣言する。
「相撲歴八〇年以上、双葉山をリアルタイムで知っている僕の実力を舐めたらいかんぞ、梶之助」
五郎次爺ちゃんも勝つ気満々だ。
土俵中央に二本、白く引かれた仕切り線の前へ。両者向かい合う。
「お互い待ったなしだよ。手を下ろして」
喜咲から命令されると、両者腰を下ろし、仕切り線手前に両こぶしを付けた。
「見合って、見合って。はっけよぉーい、のこった!」
いよいよ軍配返される。
「うわっ!」
約二秒後、梶之助は、ばったりと前に落ちていた。
「どうじゃ梶之助!」
五郎次爺ちゃんは得意顔。
「そっ、そんな……」
梶之助はあまりに一瞬の出来事に唖然とする。
「うっ、嘘、だろ……」
光洋の顔が一気に青ざめた。
「五郎次お爺様、変化するとは思わなかったよ」
喜咲も信じられないといった面持ちで、軍配団扇を東方に指した。
「ただいまの決まり手は、叩き込み、叩き込みで綾川の勝ち。梶之助、残念だったわね。でも、五郎次さんに変化されたってことは成長の証よ。真っ向勝負じゃ勝てないって思われたんだから」
寿美さんは優しく言う。
「僕の究極奥義じゃ。思いっきり突っ込んでくる梶之助は甘いのう。僕は小学校時代から変化の名人と言われておったんじゃ」
「五郎次爺ちゃん、それってつまり、逃げてるってことだろ」
「いやいや梶之助、変化も立派な技の一つじゃよ。引っかかる方が悪い。それじゃ、約束どおり光洋君を相撲部屋に」
五郎次爺ちゃんはにこにこ顔で、光洋の方へにじり寄る。
「いっ、嫌だ、嫌だぁ」
光洋は泣き喚きながら首をぶんぶん激しく振る。
その時、
「待てぇ、五郎次ぃ! 変化で勝つとは何事じゃっ。真っ向勝負で挑め!」
慶一爺ちゃんの雷鳴のような、大きな声が轟いた。
「びっくりしたぁ。すごい迫力」
喜咲は目を丸くする。
「俺、慶一爺ちゃんの怒鳴り声、初めて聞いたよ」
梶之助もかなり驚いていた。
「……」
光洋はあまりの恐怖からか、ぴたりと泣き止んだ。
「恵まれた体格の慶一兄さんとは違うのだよ、僕は。小兵には小兵の取り方というのがあるのじゃ。慶一兄さんは大相撲の決まり手がいくつあるのか知っておるのか? 八二手じゃぞ。慶一兄さんの相撲は突き押し投げだけじゃから見ていてつまらん。そんなこだわりで取り続けるから慶一兄さんは関取になれず幕下止まりだったんじゃよ」
五郎次爺ちゃんは全く怯まず、奈良東大寺金剛力士像のような形相をしていた慶一爺ちゃんを見上げながら堂々とこう意見する。
「なにをぉ。兵助から言われたことを覚えておらんのか? 五郎次は。先人の教えは守らなきゃいかんぞ」
両者、激しい睨み合い。両者の間には目には見えない火花がバチバチ飛び交っていた。
今にも相撲を取り始めようとしているようだった。
「五郎次お爺様、変化とかの奇襲戦法は相手との体格差がとても大きい時に使うものです。五郎次お爺様と梶之助くんの体格はほぼ同じですから、真っ向勝負で挑まなきゃ卑怯です。私、真っ向勝負での相撲が見たいです!」
喜咲は強くお願いした。
すると、
「……喜咲ちゃんがそういうなら、仕方ないのう」
さっきまでと打って変わって、五郎次爺ちゃんはほんわかとした表情になり再取組をする気になった。
「ありがとうございます、五郎次お爺様」
喜咲からの感謝の一声。
「単純だな。でもよかったぁ」
梶之助は呆れ顔で突っ込むも、ホッとする。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉ、次こそは頼んだぞ」
光洋も大喜びした。
「すまんのう、喜咲ちゃん。大人げないところを見せてしもうて」
慶一爺ちゃんも照れ笑いしながらぺこんと頭を下げて謝る。
そういうわけで、取り直しとなった。
「梶之助、光洋ちゃん、よかったね」
寿美さんは、今度は四股名の呼出を省略。五郎次爺ちゃんと梶之助はすぐさま土俵に上がる。
先ほどと同じく仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。
「待ったなしだよ。見合って、見合って。はっけよーい、のこった!」
喜咲から軍配返された瞬間、
「やった!」
梶之助は快哉を叫ぶ。五郎次爺ちゃんの両マワシをがっちり掴むことが出来たのだ。
「しまった!」
五郎次爺ちゃんは思わず声を上げる。
「これで勝てるっ!」
梶之助は確信した。
「おう! さすが梶之助殿」
光洋の顔に笑みが浮かぶ。
「梶之助よ、マワシが取れたら勝てるというのは、甘ぁい考えじゃぞ。相撲は奥が深いのじゃ」
しかし、五郎次爺ちゃんも梶之助のトランクスの裾を両手でがっちり掴んだ。
両者、がっぷり四つに組み合う。
「こうなったら」
梶之助、五郎次爺ちゃんに攻められる前にとすぐさま上手投げを打ってみた。
「ありゃ?」
すると、五郎次爺ちゃんはあっさり土俵にごろりんと転がってしまったのだ。
「えっ! 決まっちゃった?」
予想以上の脆さに、梶之助は少し驚く。
喜咲は軍配団扇をサッと西方に指した。
「ただいまの決まり手は、上手投げ、上手投げで、谷風の勝ち」
寿美さんが決まり手を告げると、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
光洋が雄叫びを上げながらガバッと立ち上がり、涙をぽろぽろ流しながら梶之助にぎゅっと抱きついて来た。
「こっ、光洋。苦しい、苦しいって」
「梶之助くん、おめでとう! 力技で勝てたね」
喜咲は軍配団扇を地面に置き、パチパチ大きく拍手をする。
「強くなったんじゃのう、梶之助」
五郎次爺ちゃんは立ち上がり体にべっとり付いた土を叩くと、苦笑い浮かべた。けれども嬉しさも感じていた。
「梶之助君、ようやったな。約束通り、ワシからはもう光洋君を角界に勧誘せん!」
慶一爺ちゃんはきっぱりと言う。
「僕からもじゃ。男同士の約束じゃからのう。本当は梶之助と共に角界入りし、大鵬‐柏戸のようなライバル関係で一時代を築いて欲しかったのじゃが」
五郎次爺ちゃんも残念そうにしながらも納得出来たようだ。
「あっ、ありがとう、ございまするぅぅぅ」
光洋は涙をぽろぽろ流したまま深々と一礼して感謝の言葉を述べた。
光洋と喜咲が道場をあとにすると、鬼柳家の夕食再開。
「ただいまー。ん? この異様に大きい靴は、慶一伯父さんの靴か」
権太左衛門は夜九時頃に帰宅した。
「その通りじゃ。権太左衛門君、久し振りじゃのう」
「お久し振りです慶一伯父さん、相変わらず異様にお元気そうでなりよりです」
「ハハハッ。ワシはまだ十代の若者の気分でおるからのう。では、また会おう」
慶一爺ちゃんは彼に久闊を叙するとすぐに鬼柳宅をあとにし、乗って来た自家用車で故郷へ帰っていったのであった。着いたらそのまま休まず漁に出ると言い張っていた。