中編
この世界には優れた知能と身体能力および発達した精神を持つと判断され、そのために政府から999計画に必要不可欠な人材であると見なされた“選ばれし者”と呼ばれる20人の人間が存在する。
彼らはその重要度において更に3つのクラスに分類され、No.11~No.20の10名をレベル1、No.6~No.10の5名をレベル2、そしてNo.1~No.5の上位5名をレベル3として政府公認の下、最も手厚く保護している。
芥屋サナイは優秀な両親から産まれた子供として生後間もないうちからインヘリターに値する人間であると見なされ、義務教育の年齢に達する頃にはその突出した才能を認められてNo.8に位置づけられるに至った。レベル2という政府からの優遇措置を受ける身として、サナイは何一つ不自由のないよう育てられてきたが、サナイにとってみればむしろ自由にできることなどほとんど皆無に等しかった。
幼い頃から両親の過剰ともいえる期待を一身に背負い、子供らしい言動は尽く矯正という名のもとに排除され、ただただいかなる時も完璧であれと微笑みの裏で無言の内に強要された。サナイにとって自分が全く関心のないことに力を注ぐことはこの上ない苦痛であり、自分が関心のあることにのめり込もうとするのを禁止されるようなことには怒りを通り越して呼吸さえままならぬ程の息苦しさを覚えた。
6歳になってカーサスコーラに入学し、サナイはそこで初めて大勢の同年代の人間と接触する機会を得たが、両親も含めて周囲の人間は皆インヘリターという名のフィルター越しにサナイという存在を捉え、当然のごとくサナイには友人と呼べるような人間は一人もいなかった。サナイもその頃には既に自分がインヘリターである以上、孤独は避けられないことであると理解していた。
道坂トキコという人間は、サナイにとって初めて出会った時から全くの未知なる存在であった。3年生で同じクラスになったトキコは、いつも授業という授業を尽く無視して机の上に設置された液晶パネルの陰で紙のノートブックに向かって熱心に何かを書いているか、あるいは寝ているかのどちらかであった。ところが前者の行動が教師たちに見つかったことは一度もない。そのためいずれの教師もトキコについてただ単に授業を聞かずに寝てばかりいるだらしのない生徒だと見なし、全く気にも留めていなかった。このことは恐らくトキコが元々黒児であったことも大いに関係している。
ブラッカーとは無戸籍児のことである。すなわち何らかの問題が生じたために出生届が提出されず、政府が管理する戸籍に記載されていない人間を指す。この世界におけるブラッカーの数は決して少なくはない。トキコの場合は義務教育の年齢に達する前にとある男に引き取られ、その際にその男の養子として戸籍に記載するよう届を出したため現在はブラッカーではない。しかし、このような事情は本人が言わずともすぐにインターネットを通じて周知の事実となる。
無戸籍児がブラッカーなどと呼ばれるようになった背景には、無戸籍児ではない人間が彼らを下に見る風潮が大きく影響しており、トキコのようにたとえ現在はブラッカーでないとしてもあくまで元黒児として見なされる。目に見えて明らかな差別はないものの、ブラッカーやグレイアーがインヘリターに選ばれることは絶対にない。この事実こそがその扱いの差を如実に物語っている。
ある時、教室でのサナイの隣の席がトキコになった。以前からトキコが熱心に書き込むノートブックに興味があったサナイは、授業中にその中身をそっと盗み見た。そしてすぐさま目を見開いた。その瞬間トキコが不意に顔を上げサナイを見たが、数秒の間視線を合わせた後、特に何を言うわけでもなくトキコはすぐにまたノートブックに向き合った。そのことが一層サナイに大きな印象を与えた。
トキコのノートブックに書かれていたのは、何かの設計図であった。いくつもの歯車や小さな部品が組み合わされたそれは、授業の合間にフリーハンドで書かれたものとは思えぬほど細かく、コントラストまでつけられた、素人目にも一見して綺麗だと思えるものだった。
サナイはそのもの自体の価値に関係なく、古いものが好きだった。そのためトキコのノートブックに書かれていたものが、昔使われていたというぜんまいを動力として歯車の組み合わせによって針を動かし、時刻を表示する、機械式時計と呼ばれる機器の設計図だということもすぐに分かった。
その日の放課後、周囲が慌ただしく帰宅の準備をする中、サナイはトキコに話しかけようと視線を向けた。すると視線に気づいたトキコはサナイを見て一度頷いたかと思うと、そのまま何も言わずにクラスの教室を出た。サナイはトキコのその行動の意図をすぐに読み取り、周囲に気取られぬよう少し間を開けた後でその背を追いかけた。その間、サナイはそれまでに感じたことのない感情が自分の身の内に沸き上がって来るのが分かった。そしてこれが、トキコとサナイの交友関係の始まりとなった。
***
喫茶店で暫く話した後にサナイと別れ、再び列車の車窓を眺めるうちに、トキコの頭に突如ある一つの考えが浮かんだ。トキコは思わず叫び出しそうになる口を慌てて手で押さえた。それは全く違う事象がたまたま同じ時に思い浮かんだに過ぎないにもかかわらず、両者が結び付いた途端、とんでもない可能性を秘めた一つの鍵になった。
この鍵こそがトキコがこれまでずっと知りたいと思っていたことを教えてくれるかもしれない。しかしそれは同時にトキコにとってパンドラの箱を開ける鍵となることも十分に考えられた。
「キサラギ」
夕食の片づけを済ませた後、不意にそう呼び掛けるとすぐに返事が返ってきた。目の前にある少し大きな液晶パネルは、青白い光を発しながら何の変哲もないデスクトップを表示している。
「……あのさ、私分かったかもしれない」
トキコはコンピューターの正面に置いてある猫脚の付いたダークグリーンのアームチェアに膝を抱えて座ると、その液晶パネルに向かって話しかけた。するとトキコの言葉に反応するかのように、再びその液晶パネルからはっきりとした人間の男の声が聞こえてきた。
「何が?」
「例のパスワードだよ。“ Please input your message. ”」
トキコはそう言って自分の左手首につけた時計を一瞥した後、両掌を合わせた。
師の亡き後、トキコが自分の出自を探るべく目の前のコンピューターを通じて何か情報を引き出そうとする度に、まるで警告するかのように幾度となく表示されたモーダルなダイアログボックス。そしてそこに書かれているのはいつも同じで、シンプルな英語による一文のみである。
―――――“メッセージを入力して下さい”
試しに何かを入力しようにも文字の種類の指定どころか、文字数の制限すら設けられていない。それに更に付け加えれば、入力できるチャンスが必ずしも一度限りではないと保障されているわけでもない。しかしながらモーダルであるがために、このダイアログボックスが表示されている間は他の作業が一切出来なくなる。
これにより本来かなり高度なスペックを持ち合わせていながらも、このダイアログボックス自体の解析が全く進まなかったため、今までずっと極々限られた情報しか手に入れることが出来ずにいた。
「前からちょっと気になってたんだよね、師匠から貰ったこの時計の裏に刻まれたメッセージ。Dear my daughter はいいとして、F michisaka っていうのはちょっと変でしょ? Dear ときたら From とくるのが普通。でも From は一般的に省略されるものじゃないし、Dear はそのままで From だけを省略するのも不自然。ちなみに刻む場所が足りなかったっていう可能性はまずない。そうなるとこの F は From の F じゃなくて名前のイニシャルじゃないかってことになるけど、師匠の名前は道坂ロエル。したがって F じゃなくて R でなければおかしい」
「なるほど。言われてみれば確かに不自然だ」
「それに何より気になるのは、この時計についてキサラギの記憶が一切ないってことだよ」
ブラッカーであったトキコを引き取った男の名前は、道坂ロエル。世界で唯一の独立時計師であった。ロエルは非常に優れた頭脳を持ち、幼いトキコを一人で育てながらあらゆる物事をそつなくこなした。そのなかで特に熱心であったのが、仕事でもあった時計の製作である。ロエルは創造力がとても豊かで、幼いトキコが描いた落書きさえもその製作の材料にした。
ロエルは時計を製作する際、最終的な設計図はいつもコンピューターで作成していた。そこで様々なシミュレーションを試しながら設計図上の数値を調節し、その情報を元に機械を使って細かな部品の一つ一つから時計を製作していた。
「キサラギが生まれる前に作った可能性もありえなくはないけど、でも部品の調達のことを考えればかなり無理があるよ。だって時計なんていう、時間だけしか教えてくれないものをわざわざ作ろうなんて思った人間は勿論師匠以外いなかったはずで、そうなるとその製作に必要な部品を自分で作り出す以外の手段で調達できたとはとても思えない」
「つまり?」
「私が考えるに、多分消去されたんじゃないかなって。そうなるとデリート出来た人間は、かなり限られる」
「ロエルか」
「……あるいはこの“ F michisaka ”か」
トキコがそう言った後、少しの間を開けて再び男の声がした。
「とりあえず今、政府の住民に関するデータバンクにアクセスしてざっと見てみたんだが、どうも該当する人間はいなそうだな」
ざっと見ただけだから、もっと詳しく探ってみればまた違った結果がでるかもしれない。そう言って男は、政府がいかなるクラッカーの侵入も阻むよう何重にもロックして管理する重要な情報を更に探った方がいいのかと、トキコに尋ねるかのように沈黙した。
この世界における人間の名前というものは多種多様であり、とりわけ新たに作ることが出来ない名字に関しては珍しい名字を持つことが一種のステータスとして見なされ、少し前の時代にはそれらを手に入れるために手段を選ばない者も数多く存在した。政府による介入もあり現在はかなり落ち着きつつあるが、それでも名字に対する認識は相変わらずそのままである。
そんな風潮の中で道坂という名字はありふれた名字であると見なされたようで、同音異字の名字を持つ人間は存在するものの、政府が管理する範囲において道坂という名字を持つ人間は今やトキコのみである。そして一昔前までは世界の至る所で見られた佐藤という名字に関しては、既にその名字を名乗る人間が誰もいなくなってしまった。
「うん、多分その情報は正しいよ。F michisaka は多分直接的じゃなくて、間接的に誰かを暗示してるんだよ。今の段階で可能性が高いのは、……師匠と何らかの関わりを持った人間ってことかな」
トキコはそう言ってもう十分だというように軽く頷きながら、F michisaka という人間について明言を避けるかのようにわざとぼかした表現をした。
「まぁこれが誰かを指しているんだとすれば、同じ名字なわけだしな。それに」
「それに、……あのメッセージ」
トキコは会話の流れで自然と男の言葉を引き継ぎながら、同時に自分の中で薄らいでいた存在が今し方再び輪郭を取り戻しつつあるのを感じていた。
―――――“愛する娘へ”
娘という言葉は未婚の若い女性に対して使われることもあるが、それよりも親が自分の子である女性に対して使うことの方がより一般的であると考えられる。
「まぁ必然的にそういうことになるよな。あのメッセージがロエル以外の人間からのものだとすれば、そして更にその人間が意図的にロエルと同じ名字を使ったのだとすれば、F michisaka というのがどんな人間なのかは明らかだ」
黙り込むトキコに男はそう言って、トキコが用心深く何度も突き放す一つの大きな可能性を手繰り寄せ、いい加減に受け入れるよう促した。一方で、トキコも自分の臆病さ故の片意地を自覚しつつも今一歩認めることが出来ず、そのため男の言葉に対してその口から出た言葉はこうであった。
「……ミスリードじゃなければね」