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前編

 

 徐に竜頭を巻けば高速で振り子運動を繰り返すテンプがリズムを刻み、歯車が一つ二つと噛み合わさって出来上がったばかりの小さな金属の塊が動き出した。


丸く切り取られた文字盤ダイアルの中央からはトゥールビヨンが顔を覗かせ、斜め下に腕を伸ばしたような形をしたアンクルがカギ型の歯車を持つガンギ車の上で左右に揺れ動きながらテンプとともに回転していく。まるで心臓のようなその動きにそっと耳を近付ければ、カチカチと鼓動する音が聞こえた。


―――――数百個の部品を組み合わせてできた、この世に一つの世界。


その世界に命が吹き込まれ動き出す瞬間は、いついかなる時であろうとも美しい。




 トキコは出来上がったばかりの時計の胴体部にあたるケースを掌にのせて暫く眺め、やがて満足するとその上下に黒い革のバンドを取り付けた。それから何度も裏表を引っ繰り返しながら不具合がないかどうかを確かめた後、手元の細長い箱の蓋を開けてバンドの剣先と親の上下二か所を固定させるとゆっくりとその箱の蓋を閉めた。


時計を収めた箱を作業台に置くと、トキコは右の瞼に挟んでつけていた小さな筒状のルーペであるキズミを外した。続けて椅子の背に背中を押しつけ後方に仰け反るようにして両手を伸ばせば、肩や腰の辺りの関節からぽきりぽきりと音が鳴る。そうして思い切り肺に吸い込んだ息を全て吐き出した後で体勢を元に戻すと、作業部屋を出るべく立ち上がった。


「お疲れ」


 立ち上がって数歩も歩かないうちにどこからともなく聞こえた声に、トキコは小さく一度だけ頷いた。その目は長時間にわたる作業で蓄積した疲労によってごく薄く開かれ、辛うじて意識を保っているのがありありと分かる。そして自動で開いた部屋の扉を通り抜け、ややふらつく体でトキコが自分の寝室へ向かおうとした矢先に再び声が聞こえてきた。


「寝る前に一杯だけでも水飲んどきな。そのまんまんじゃ干からびて死ぬぞ」


そう言って少し冗談めかしながらも心配する声に、トキコはまた一度頷いて見せた。実際何も声を掛けられなかったならば、既に半日近く何も口にしていないにもかかわらず、トキコは気にせず衝動の赴くまま眠りについたことだろう。そしてそのことをこの声の主もよくよく理解している。


本当に驚くほど過保護である。それでいて何をするにしてもそつがない。何をどうしたらこんな風に出来上がるのか尋ねてみたいが、既にそれは叶わなくなってしまった。カラカラに渇いて張り付く喉を今更になって知覚したせいで込み上げる不快感に顔を顰めながら、トキコは口内で無理矢理かき集めた僅かな唾液をこくりと飲みこんだ。




***




「おはよう」


 まるで耳元で囁かれたかのようなその声に、トキコの意識はすぐに覚醒した。そして枕元の机の上に置いてあった時計を手に取ると、手早く竜頭を巻いて針を6時ちょうどに合わせた。カチカチと時を刻む音を確認した後、トキコは時計を引っ繰り返して裏を見た。


シースルーバックである裏蓋からは内部に収められた機械部分であるムーブメントの動きとともに、その銀色の部品の表面に青字で刻まれた“ Dear my daughter F michisaka ”という文字が見える。トキコは親指で裏蓋を一度撫でると時計を左手首につけ、徐にベッドから床に足を下ろした。




 液晶パネルから聞こえてくるニュースのほとんどを聞き流しながら、トキコは朝の支度をのんびりと進めていく。チーズ入りウィンナーを軽く炙り、出来上がった卵焼きをお弁当箱に詰めながら、今度はアッサム紅茶を水とミルクを半々にして鍋で煮込み、ロイヤルミルクティーを作る。


そうして食事の支度がある程度済んだところでやっとパジャマから細身のジーパンに履き替え、白いシャツの上から赤いカーディガンを羽織ると、出来たてのロイヤルミルクティーの入ったマグカップを片手に朝食を並べ終えたテーブルの椅子に座った。


「今日の天気は晴れ時々曇りだってさ」


ニュースの合間に読み上げられる天気通告を聞いていたのか、トキコが食事に手を付けるや否やそう言う声が聞こえた。


「……いつも思うけど、そういう中途半端さは何でか好きよね。他は大抵完璧さを求めるのに、変なの」

「なるべく自然に近づけたいんじゃないか?」


トキコは一旦食事をする手を止めてロイヤルミルクティーをこくりと一口飲むと、口元を歪めて笑った。


「だったらぜひとも竜巻に雷、ついでに霰と雹も追加して欲しいわ」

「君が自分で実現すればいい。多分それが一番手っ取り早くて確実だ」

「心の底から御免被ります」


ぴしゃりと言い放つはずの言葉はけれどもほんの少しだけ揺れた心に反応して、少し笑い混じりの説得力に欠けるものになってしまった。




 科学という名の形なき絶対者に支配された世界、それがトキコの生きる世界である。何においても貪欲に最上を追い求めた結果、過去に存在したはずの本当に自然だと呼べるものはほとんど何もなくなってしまった。


あらかじめ公表されている日程表に基づいて変動する天候に始まり、常に一定の比率に保たれた成分で構成された清浄な空気、あるいはその中で生きる植物や動物といった生命を持つものに至るまでその全てが人の手によって制御されている。


人間もまたその例に漏れることなく、コンピューターが膨大なデータから弾き出した最良とされる相手と結婚し、子供たちはそれぞれの親たちが考える最良の配列へと組み換えられた遺伝子を持ってこの世に生まれてくる。容姿に恵まれ才能に溢れた人間はこれまでに数多く生み出されているものの、それでもまだ人々が理想とする完璧な人間にはまだ誰一人辿りついていない。所謂99.9%完璧な人間を生み出そうという“999(スリーナイン)計画”はこの世界を支配する政府主導の下、日々研究が続けられている。




 朝食の後片付けを終え学校に持って行く鞄の中に必要なものを詰め込むと、トキコは三面鏡のある洗面所に向かった。そこで後姿を確認しつつ肩にかかる程の長さの黒髪を後ろで一つにまとめると、仕上げに赤を基調とした天然石をあしらった黒い簪を斜めに差した。


夜の時間帯ナイト・タイムに入る前には帰ってくるつもりだけど、帰りの列車に乗る前にメールを入れるね」

「あぁ。気をつけてな」


見送りの言葉に頷きつつ靴を履き終えると、トキコは玄関の扉の取っ手に手を掛けながら振り返った。


「そっちもね。それじゃあ、行ってきます」




***




 13時過ぎに学校での用事を終えると、トキコは友人に会いに行くために列車に乗り込んだ。その友人とはもうかれこれ5年近くの間一度も会っていない。その主たる理由としては、義務教育終了後にお互い違う進路を選んだことが挙げられる。


この違いは非常に大きなもので、身に付けるべき事柄も勿論のこと何よりも生活拠点となる場所が大きく異なり、トキコが自分の進路を告げた際に普段あまり感情を表に出さないその友人が珍しくも残念そうな表情を見せる程であった。


 乗り込んだ列車はあまり混んでおらず、トキコは遠慮なく4人掛けのボックスシートの窓際に座った。こうして列車に乗るのも随分と久し振りのことであった。音もなく揺れを感じることもない状態でただぼんやりと車窓を滑らかに流れていく景色を見ていると、まるでフラッシュバックのように輪郭のない過去の断片が脳裏にちらついた。




―――――透明感のある赤・黄・青・緑の穴の開いたブロック。


 それらを組み合わせて道を作り、上から下へ球を転がす玩具が幼い頃のトキコのお気に入りだった。そしてその隣では父がよく余りのブロックを使って球を転がすための道を作っていた。


父が作ったものはそのどれもが球が全ての道を満遍なく通るように設計され、なおかつ形や色合いまでもしっかりと考えられたもので、しかしながら父はいつもトキコが見ていない時に作る上に作り方を聞いても答えてはくれなかったため、トキコは今もなお再現することが出来ない。




 1時間に及ぶ列車の旅を終えて目的の駅に降り立つと、トキコは人が溢れる駅をするりと抜けて掌に収まる程の薄くて小さな端末を片手に道という道を突き進んで行った。そして端末に表示される地図上で動いている赤い点がちょうど今自分がいる地点のすぐ近くであることを確認したトキコは、漸く歩く速度を落として注意深く周囲に目を向けた。


するとすぐに前方で一人の若い男が足早に歩いている姿を発見した。シルバーブロンドの髪に灰青色の瞳、それから黒縁の眼鏡の着用。これらはいずれも先天性色素欠乏症などと呼ばれる症状を伴うアルビノの特徴に合致する。そしてその服装についても特に相違点はなさそうに見えた。


グレーのジャケットにネイビーのパンツ、それから黒い革靴に至るまで、その身に着けているものは恐らくどれも世界的に名の知れたブランドの上等な品物であることが分かる。アルビノに高級感漂う服装とくればまず間違いなく友人たるその人であろうと確信を得たトキコは、相手に気づかれぬよう気配を消しつつ、男との距離を縮めていった。




 ガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ寒色の街に、規則正しく並べられた街路樹が色を加える。秋の季節はケヤキ、ユリノキ、メタセコイア、イチョウなどが紅葉して赤、橙、黄色といった暖色を帯びている。見上げた先の空までもが紅葉したかのように見える様は、まさに今が見頃である。


しかし春の季節になれば、これらの木々は一斉にソメイヨシノ、コブシ、ハクモクレンといった春を盛りとする木々に取って代わられる。その間、秋を見頃とする木々は巨大な植物園に運び込まれ、そこでまた次の秋が来るまで綿密な計算に基づいた環境下で管理されることになる。




「そこのお兄さん、私とお茶でもいかが?」


 トキコがそう言って後ろから肩を軽く叩くと、男は勢いよく振り返りそして固まった。その男の驚いた表情というのがあまりに珍しかったので、トキコは思わず笑ってしまった。すると段々と表情から緊張が解けていき、いつも通りの無表情を通り越して今度は怒りの表情へと変わっていくのがすぐに見て取れたので、トキコは慌てて男の腕を引いて近くの喫茶店へと連れ込んだ。




***




「……サナイ君。コーヒーは冷めると美味しくないよ?」


 喫茶店に入ってからもサナイはうんともすんとも言わず、トキコが勝手に頼んだブラックコーヒーを前にしてもサナイは一口も飲もうとしないのでトキコが恐る恐るそう声を掛けると、じっと睨みつけてくる目つきが一層鋭くなった。


その様子を見てこれはどうも駄目そうだと感じたトキコは、せめてもと放置されたコーヒーカップに砂糖を2個加え、自分が頼んだ紅茶に付いてきたティースプーンでかき混ぜた。ギュムナシオンにて11年生となった今はどうか分からないが、共にカーサスコーラに通っていた頃のサナイの好みはこうであった。




 この世界では義務教育の年齢である6歳に達すると、一律に基礎学校カーサスコーラにて4年間の初等教育を受ける。その後は大きく2つに分かれ、職業訓練かあるいは高等教育準備ギュムナシオンに進むのかこの時点で将来の進路選択をすることになる。


職業訓練を選択した場合、5年制の基幹学校デュクススコーラと6年制の実科学校バルデスコーラとがあり、バルデスコーラにおいては高等教育準備に関する過程も行われ、成績によってはギュムナシオンへ編入することも可能である点がデュクススコーラと異なる。しかしいずれも基本的には15歳前後で労働者として就職することになる。


一方、ギュムナシオンでは後期初等教育と中等教育をそれぞれ4年ずつ合わせて8年間の長期教育を受け、卒業と同時に4年制の高等教育アビトリアムへと進むための受験資格を得ることができる。


 トキコは現在、デュクススコーラ在学の9年生である。バルデスコーラと違い何よりも就職を第一に考える学校においてトキコは早々に就職先を決め、卒業試験代わりとなる卒業制作作品マスターピースの提出も終えて、つい先程それが卒業に値する作品であるとして担当教員から承諾の言葉を貰ってきたところである。




「サナイ君、これあげるよ」


 トキコはそう言って鞄の中から細長い箱を取り出すと、サナイのすぐ目の前に置いた。サナイはそこで初めて関心を引かれたのか一度その箱に目をやった後、説明を求めるようにトキコに視線を向けた。


「私のマスターピース。今日の午前中に提出して承諾されたのを持って帰ってきたんだよ。いらなかったら捨ててもいいけど、誰かにあげるのはやめてね」


トキコの言葉を聞くとサナイはすぐに箱を開け、その中に入っているものを確認すると驚いたように目を見開いた。その一部始終を見ていたトキコはその反応にホッとして、ティーカップに手を伸ばし紅茶を飲んだ。


アールグレイにオレンジとレモンの果皮を加えた華やかな香りが特徴のレディグレイはトキコが気に入っている紅茶の一つである。口の中に広がる柑橘系の爽やかな甘みに思わず口元が緩んだ。


「……君は本当に気に食わないやつだな。それなりの頭を持っているのに、それをほんの一部しか使っていない」


 サナイは箱から取り出した黒い革のバンドのついた時計を表裏ともに余すところなく観察した後、その竜頭を熱心に巻き上げながら眉間にしわを寄せてそうぼやいた。それがまるでわざと拗ねて見せる子供のように思えて、トキコは笑いをかみ殺すのに苦労した。


「褒めてるんだか貶してるんだか分からないよ」

「好きに受け取ってくれて構わない。先に言っておくが顧客は引き継ぐだけでなく、積極的に新しい顧客を取り込んで行かなければ店の経営はすぐに立ち行かなくなるぞ」


サナイの言葉にトキコは思わず目を瞬いた。卒業後に師の後を継いで独立時計師としてやっていくことどころか、あまり積極的に新しい顧客を取り入れるつもりがないことまで既に見透かされているとはさすがに思いも寄らなかった。しかしそのような事実も、所詮彼にとっては既に手にしている情報から文字通り目に見えて明らかなことでしかないのであろう。


「肝に銘じておくよ」

「銘じる気も何もない癖によく言う」

「少しくらいはあるよ」


またしても心の内を見抜かれて、トキコは悔しさからつい反射的にそう言い返していた。サナイはそんなトキコの心情もまた見抜きつつ、素知らぬふりをして「それにしても」と別の話題を口にした。


「この“ the child of time ”というのはいいね、面白味がある。時計を見る度に製作者の名前を拝まされるんじゃ、うんざりするからね」


そう言ってサナイは時計のダイアルに刻まれた文字を指で指し示した。普通ダイアルには時計ブランドかあるいは製作者自身の名前が刻まれているものだが、サナイが指差す部分には“時間の子供”と刻まれており、それ以外にダイアル上で名前を示していると思われるものは何もない。


マスターピースとして提出するにあたって作品自体に製作者である自分の名前を刻むことが義務づけられていたものの、そのことに抵抗を覚えたトキコは自分の名前にほんの少し捻りを加えた言葉を代わりに刻むことにした。サナイのことであるからすぐにその意図に気がつくであろうと予想はしていたが、思いのほかそれを気に入った様子にトキコの口元は自然と緩んだ。


「じゃあ、裏のはどうかな」


トキコの問いかけに、一瞬サナイの表情が固まった。それから僅かに唇を動かした後、掌の中にある時計を指で弄りながら視線を宙に泳がせて暫く黙りこんでいたが、やがて徐に口を開いた。


「……そうだな。あれも悪くない」


サナイはトキコから視線を逸らしたまま、まるで呟くような声でそう言った。それを見てトキコはますます嬉しくなった。






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