第19話 蘭がいい
結局、蘭は長会議へ連れていくことになった。
というより、連れていかないという選択肢がなかった。
「駄目だ」と言っても、蘭はついてくるつもりだった。
その顔をしていた。
いや、表情はいつも通りほとんど変わっていない。
だが、二か月ほどほぼ一緒に過ごしてきた今ならわかる。
あれは、絶対についてくる時の蘭だ。
なら、最初から連れていく方が問題は少ない。
勝手についてこられるよりは、同行者として扱った方がまだましだ。
父に確認しても、
「駄目と言われたら、力で黙らせればいい」
という返答だった。
確認する相手を間違えた気もする。
だが、剛力王国ではそれがある程度通るらしいのが怖い。
そうして、私と父と蘭は長会議の場へ向かうことになった。
移動手段は、走りだった。
数日間、走る。
普通に走る。
道具も馬も使わない。
荷物を背負って、危険地帯に近い道も越えて、ただ走る。
長になるだけの実力者なら、下手な移動手段より自分の足の方が早いし壊れない。
そう父は言った。
おかしい。
移動手段に求める条件が「壊れない」なのはわかる。
だが、自分の足をその最上位に置くのはおかしい。
前世の私が聞いたら、間違いなく蛮族の発想だと切り捨てただろう。
今の私は、その走りについていけている。
荷物を背負って。
数日かけて。
父と蘭と一緒に。
つくづく思う。
この国の人間は、人間という枠の中にいるだけで、ほとんど別種の存在ではないだろうか。
少なくとも、前世の理知帝国の人間とは、体の前提が違いすぎる。
だが、そんなことを考えながらでも走れている私も、もうだいぶこちら側なのだろう。
認めたくはない。
だが、否定もできない。
数日後、長会議の場に着いた。
そこは、村というより大きな拠点に近かった。
複数の道が集まる場所に、広い建物がいくつも並んでいる。
武骨だが頑丈。
飾りは少ない。
だが、壁も柱も太く、戦士たちが多少暴れても壊れないように作られているのがわかる。
基準がおかしい。
会議場とは、普通、話し合うための場所だ。
暴れても壊れないことを前提にするな。
だが、ここは剛力王国だ。
むしろ正しいのかもしれない。
到着した時点で、すでに何人かの長たちが集まっていた。
全員、強い。
見ただけでわかる。
村の大人たちも強い。
父も強い。
だが、ここにいる者たちは、また一段違う。
体格が大きい者。
父のようにいかにも力の塊という者。
逆に、蘭のように見た目だけではわかりにくい者。
いろいろいる。
だが、空気が違う。
危険地帯で魔物を前にした時に近い、肌がざわつく感覚がある。
その中でも、ひと際強いと感じる人物がいた。
父は迷わず、その人物の元へ向かった。
私は一歩近づいただけで、足が重くなった。
何だ、これは。
圧がある。
殺気ではない。
敵意でもない。
ただ、そこにいるだけで、こちらの体が勝手に格の差を理解する。
対面した瞬間、はっきりわかった。
無理だ。
何をやっても勝てない。
工夫。
読み。
身体能力。
これまで積み上げてきたものを全部使っても、届く気がしない。
やる前から納得してしまうほどに強い。
その男は、年齢で言えば父より少し上かもしれない。
体は大きいが、ただ大きいだけではない。
立ち方が安定している。
無駄がない。
目も静かだ。
父のように大声で押してくる感じではない。
だが、だからこそ怖い。
この国では、一番強い人間が王になる。
まさか。
私は父へ小声で聞いた。
「父様。もしかして、この人が王か?」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、父が笑った。
目の前の男も笑った。
「はっはっは! 王か! 俺がか!」
男は腹の底から楽しそうに笑った。
どうやら違ったらしい。
父も笑っている。
そんなに笑うことか。
こちらは真面目に聞いたのだ。
「剛理、この人は剛真だ」
父が言った。
「長会議のまとめ役だ」
「剛真だ。よろしくな、剛理」
剛真。
まとめ役の長。
なるほど。
王ではない。
ないらしい。
だが、この強さで王ではないのか。
私は剛真を見る。
剛真はまだ少し笑っていた。
「王と間違えられるのは悪い気分じゃないが、違うな。俺はせいぜい、この国で二番手くらいだ」
「二番手」
「ああ。まとめ役を任される程度には強い。だが、王は別だ」
剛真の目が、少し遠くを見る。
「今代の王は、本当に化け物だ。俺と比べても化け物だな」
私は言葉を失った。
目の前の剛真ですら、私とは大きく差がある。
父を中位とするなら、剛真は明らかにその上だ。
その剛真が、自分と比べても化け物と言う。
どれほどの差があるのか。
想像したくない。
いや、いつかは向き合う必要があるかもしれない。
理知帝国への備えを国に伝え、動かすなら、王の存在は避けられない。
だが、今はまだ早い。
今の私が考えるべきは、長会議での立ち位置だ。
父が私を剛真に紹介した。
「剛真。こいつが剛理だ。俺の息子で、次の村長になる」
「話は聞いている。剛力羅に勝ったそうだな」
「勝った」
私は答えた。
剛真は楽しそうに目を細める。
「いい目だ。若いが、芯がある」
評価された。
悪い気はしない。
だが、目の前の相手との距離があまりにも大きいので、浮かれる気にもなれなかった。
父はさらに蘭を見た。
「それと、蘭だ。剛理の嫁だ」
「婚約者だ」
私は訂正した。
父は気にしなかった。
「似たようなものだ」
「違う」
「いずれ同じになる」
そうかもしれないが、今は違う。
蘭は私の隣で、いつも通り無表情に立っていた。
ただ、私の袖を軽く掴んでいる。
剛真は蘭を見る。
その目が一瞬、鋭くなった。
「ほう」
短い声。
蘭の強さに気づいたのだろう。
当然だ。
蘭は村で一番強かった。
私がまだ勝てていない相手だ。
「面白いな。若いのが二人、揃っている」
剛真はそう言って笑った。
その後、他の長たちも少しずつ集まってきた。
各地の村長。
大きな集落の長。
街に近い規模を持つ場所の長。
年齢も体格もさまざまだ。
ただ、全員に共通していることがある。
強い。
ここにいるだけで、それはわかる。
その中に、私と同じく長交代で来た者がいた。
ただし、村ではない。
街レベルの集まりの長の交代らしい。
名は剛覇。
私より五、六歳ほど上に見えた。
見た目の筋肉量は、父ほどではない。
むしろ、剛力王国の戦士としては少し細く見える。
だが、私はすぐに違和感を覚えた。
弱くない。
むしろ、かなり強い。
蘭と長く相対していたからこそ、何となくわかる。
こいつは、蘭と同じ側だ。
見た目より、内側の密度がおかしい。
隔世遺伝。
おそらく、それだ。
剛覇は私を見て、軽く笑った。
「お前も長交代か」
「ああ。剛理だ」
「剛覇だ。俺は街の方の交代だ」
街。
村より規模が大きい。
その長になるということは、相応の実力者なのだろう。
年齢も私より上。
経験もあるはずだ。
「若いのに街の長なのか」
私が言うと、剛覇は肩をすくめた。
「なりたくてなった」
「なりたくて?」
「ああ。街は人が多い。強い女もいる。だが、多すぎると逆に探しにくい」
私は少し首を傾げた。
剛覇は笑う。
「俺に釣り合う女がいなくてな。なら、街で一番になれば、向こうから来るかと思った」
何だ、その理由は。
いや、剛力王国ではおかしくないのかもしれない。
強い者が選ぶ。
欲しい者を得るために強くなる。
その価値観なら、頂点に立って相手を探すのは、むしろ正攻法なのだろう。
「本来は、長になってから本格的に嫁探しするつもりだったんだが」
「だった?」
「まあ、機会は逃すなって話だ」
剛覇はそう言って、私の隣へ視線を向けた。
蘭を見ている。
その目は、軽いようでいて、かなり真剣だった。
嫌な予感がした。
剛覇の視線は、蘭の顔や体つきだけを見ているものではない。
もっと内側。
強さ。
密度。
隔世遺伝による、普通とは違う肉体。
そこを見ている。
蘭に向ける視線が変わった。
獲物を見る目ではない。
欲しいものを見つけた目だ。
「そっちは?」
「蘭だ。俺の婚約者だ」
私が答えるより先に、蘭が言った。
「剛理の」
まただ。
私は蘭を見た。
「蘭」
「なに」
「外では控えろと言ったはずだ」
「聞こえない」
聞こえている。
剛覇が面白そうに笑った。
「まだ結婚してないんだろ?」
「婚約している」
「なら、まだ決まったわけじゃないな」
蘭の空気が少し変わった。
袖を掴む力が強くなる。
剛覇はそれに気づいている。
気づいた上で、引く気がない顔をしていた。
「お前、強いな」
剛覇は蘭に言った。
「それも、ただ鍛えた強さじゃない。俺と同じ側だろ」
蘭は答えない。
剛覇は笑う。
「見た瞬間にわかった。やっと見つけたって感じだ」
私は眉を動かした。
やっと見つけた。
その言葉の意味はわかる。
剛覇は強い。
しかも、おそらく蘭と同じ隔世遺伝の肉体を持っている。
自分に釣り合う相手を探していた。
その相手として、蘭を見た。
外見ではない。
能力。
肉体の質。
強さ。
そこに一目で惹かれたのだろう。
それ自体は、剛力王国ではあり得る話だ。
だが、だからといって、こちらとして受け入れられるわけではない。
「村なんて人数が少ないから、妥協しただけじゃないか?」
剛覇が言った。
蘭が一歩前に出そうになる。
私はそれを止めるべきか迷った。
剛覇は続けた。
「まだ結婚していないなら、俺の街に来ないか? 俺の方が、お前と釣り合うぞ」
蘭の目が冷えた。
表情は変わらない。
だが、空気が冷たい。
「行かない」
「そう言うなよ。強い女には、強い男が合うだろ」
「剛理がいい」
「そいつ、俺より弱そうだぞ?」
「剛理がいい」
「本当に釣り合ってるのか?」
「剛理がいい」
会話になっているようで、なっていない。
蘭は同じ答えを返しているだけだ。
だが、その声は少しずつ硬くなっている。
剛覇も引かない。
おそらく悪意だけではない。
自分に釣り合う相手をやっと見つけた。
ここを逃せば機会がない。
そういう焦りも混じっているのだろう。
だが、そんな事情はこちらには関係ない。
場の空気が少しずつ熱を帯びた。
私は口を挟もうとした。
だが、その前に、ぱん、と大きな音が響いた。
剛真が手を叩いたのだ。
ただ手を叩いただけなのに、会場全体が静かになった。
すさまじい圧だ。
「そこまでだ」
剛真が言った。
「ちょうどいい。長順を決める必要もある。見極めにもなるだろう」
剛真の視線が、私と剛覇を順に見る。
「剛理。剛覇。お前たちで戦え」
私は息を吐いた。
こうなる気はしていた。
いや、少しだけしていた。
剛力王国だ。
口論が起きれば、最後は戦いになる。
むしろ、見極めとしてはわかりやすいのかもしれない。
剛覇が笑った。
「いいぜ」
蘭が私の袖を強く掴んだ。
「剛理」
「大丈夫だ」
「勝って」
短い言葉。
だが、込められた感情は重い。
剛覇は蘭を見て笑う。
「勝ったら考え直すか?」
「考えない」
「なら、そいつがどれだけやれるか見せてもらう」
私と剛覇は、会議場の中央に出た。
周囲に長たちが輪を作る。
武器はない。
素手。
剛力王国らしい。
私は構えた。
剛覇は軽い姿勢で立っている。
隙があるように見える。
だが、ない。
蘭と同じだ。
見た目の隙と、本当の隙が一致しない。
剛真が手を上げた。
「始め」
瞬間、私は踏み込んだ。
先手を取る。
相手の力を測る。
低く入り、脇へ回る。
剛覇の腕が伸びる。
速い。
私は避け、拳を叩き込んだ。
手応えはあった。
だが、浅い。
肉を打った感触はある。
しかし、ダメージが通った感じがしない。
硬い。
いや、硬いだけではない。
衝撃が中で潰されるような感覚だ。
やはり蘭に近い。
隔世遺伝の肉体。
普通の鍛錬で届く強さとは違う。
「軽いな」
剛覇が笑った。
次の瞬間、拳が飛んできた。
私は受け流そうとした。
だが、重い。
受け流しきれない。
腕ごと押し込まれ、体勢が崩れる。
追撃。
腹に衝撃。
体が浮いた。
地面を転がる。
受け身を取る。
すぐに立つ。
痛い。
だが、動ける。
私は再び踏み込んだ。
攻める。
避ける。
打つ。
崩す。
だが、届かない。
私の攻撃は、剛覇にほとんどダメージを与えられていない。
逆に、剛覇の一撃は重い。
一つ受けるたびに体が軋む。
まともに食らえば吹き飛ばされる。
何度か崩しを狙った。
足を狙う。
重心をずらす。
腕を誘う。
だが、剛覇の体は崩れない。
見た目より、はるかに強い。
蘭と同じだ。
理屈を立てて、技を使って、経験で補っても、肉体の底が違う。
勝てない。
このままでは負ける。
濃厚どころではない。
時間の問題だ。
剛覇の拳が肩に当たる。
私は横へ吹っ飛ばされた。
地面を削る。
立つ。
息が荒い。
周囲の長たちは黙って見ている。
父も黙っている。
剛真も静かに見ている。
そして、蘭がいた。
納得できない、という空気を出している。
表情はほとんど変わらない。
だが、私にはわかる。
蘭は納得していない。
「剛理」
蘭の声が響いた。
「本気でやって!」
私は剛覇から目を離さずに答える。
「本気でやってる……でも、届かないんだ」
悔しい。
口にした瞬間、自分でもわかる。
私は本気でやっている。
少なくとも、肉体と技だけなら。
だが、届かない。
剛覇の方が強い。
それは事実だ。
「剛理、本気出してない」
「出してる」
「私、いらない?」
その声に、私は一瞬動きを止めかけた。
悲しそうな声だった。
蘭が、そんな声を出した。
胸の奥が冷える。
蘭は、まだ私からはっきり返してもらっていないのだ。
婚約はした。
蘭ならいいと思った。
毎日一緒に過ごして、蘭のことを可愛いとも思うようになった。
だが、蘭からすれば、私はまだ言葉にしていない。
蘭が欲しいと言ったほどの熱を、私は返していない。
だから、私がここで剛覇に届かないと言うことが、蘭には別の意味に聞こえたのかもしれない。
剛覇の方が強い。
だから、剛覇の方が蘭に釣り合う。
私が諦める。
そんなふうに。
「そんなことない!」
私は叫んだ。
「でも、あいつの方が強いんだ!」
「でも、剛理、身体強化使ってない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
身体強化。
私は息を呑む。
そうだ。
使っていない。
なぜだ。
考えるまでもない。
ずっと使わないようにしてきたからだ。
幼い頃、母に止められた。
体を作る前に魔法で補うのは、肉体づくりの邪魔になる。
父にも言われた。
ズルだと。
いや、正確には、使い方の問題だと私は理解した。
身体強化魔法そのものは悪くない。
ただ、未熟な体を魔法で誤魔化すのが駄目だった。
だが、今はどうだ。
私はもう、父に勝った。
村の男たちに勝った。
肉体だけで見ても、今の私は父を超えている。
魔物の血肉を食べ、鍛錬を積み、体を作った。
幼い頃の、魔法で足りない部分を誤魔化していた私ではない。
魔法も磨いてきた。
完全に捨てていたわけではない。
使ってこなかった理由は、いつしか別のものになっていた。
蘭に通じない。
あるいは、通じなくなるのが怖い。
魔法を使って一度勝てても、それが蘭の成長を促し、また届かなくなるかもしれない。
いや、それだけではない。
身体強化を使っても蘭に勝てなかった時、私は本当に逃げ道を失う。
だから使わなかったのかもしれない。
言い訳だ。
今、この場で私が出せる力は、肉体と技だけではない。
魔法も含めて私の力だ。
前世で磨いた理知。
今世で鍛えた肉体。
その両方が、私だ。
これが本当に全力か。
違う。
私はまだ、出していない。
剛覇が笑っている。
「どうした? もう終わりか?」
私は蘭を見た。
蘭は私を見ている。
少しだけ不安そうに。
今にも、何かを失いそうな顔で。
私は息を吸った。
「ごめん、蘭」
そう言って、剛覇へ向き直った。
蘭の顔が曇った。
それが見えた。
私の言葉を、諦めの謝罪だと思ったのだろう。
違う。
そうではない。
だが、今は説明している時間がない。
私は地面を蹴った。
走りながら、体の奥へ魔力を流す。
足。
腰。
背中。
肩。
腕。
指先。
全身へ、身体強化を張り巡らせる。
幼い頃の薄い補助ではない。
今の肉体を土台にした強化。
足りない部分を誤魔化すためではない。
鍛えた肉体を、さらに押し上げるための魔法。
視界が変わる。
地面が近い。
風が遅い。
剛覇の笑みが、少し変わった。
「ほう」
短い声。
気づいたらしい。
私はさらに踏み込んだ。
剛覇の拳が来る。
見える。
避ける。
いや、受け流す。
腕に衝撃。
だが、先ほどとは違う。
押し込まれない。
体勢を崩さない。
剛覇の懐へ入る。
拳を握る。
足から腰へ。
腰から背中へ。
背中から肩へ。
肩から腕へ。
力を通す。
魔力で補強された肉体が、今まで届かなかった場所へ届く。
私は拳を叩き込んだ。
今度は浅くない。
剛覇の体が浮いた。
驚いた顔。
そのまま吹っ飛ぶ。
地面を転がり、土を削りながら止まった。
周囲が一瞬、静かになる。
私は息を吐いた。
身体強化を維持したまま、剛覇を見る。
倒した。
だが、終わっていない。
剛覇はすぐに起き上がった。
口元に笑みを浮かべている。
血が少し出ていた。
それでも、楽しそうだった。
「はっ」
剛覇が笑う。
「釣り合う相手がいなくて妥協したのかと思ったが、ちゃんと釣り合ってるじゃねぇか」
私は構えを解かなかった。
まだやるのか。
そう思った時、剛真の声が響いた。
「そこまで」
短い一言。
だが、その場の全員が従った。
剛真が私と剛覇を見た。
「見極めは終わりだ」
戦闘終了。
私はようやく息を吐いた。
身体強化を解く。
体が少し重くなる。
久しぶりに全身へ強く巡らせたせいか、熱が残っていた。
だが、不快ではない。
むしろ、しっくり来る。
肉体を鍛えた今だからこそ、身体強化がきちんと乗っている。
そんな感覚があった。
蘭がこちらへ来た。
速い。
私の前で止まる。
そして、無言で私を見る。
「蘭」
「……ごめんって言った」
「あれは、諦めたわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「全力を出していなかったことへの謝罪だ」
蘭はじっと私を見た。
表情はほとんど変わらない。
だが、少しずつ空気が戻っていくのがわかった。
「私、いる?」
「いる」
私は即答した。
考えるまでもなかった。
「蘭がいい」
言ってから、自分で少し驚いた。
自然に出た。
蘭は一瞬、動きを止めた。
そして、私の袖を掴んだ。
いつもより少し弱い力で。
「うん」
短い返事。
だが、今はそれで十分だった。
剛覇が少し離れたところで肩を回しながら笑っている。
「おい、俺を倒した直後に見せつけるなよ」
「お前が余計なことを言ったからだ」
「悪かった悪かった。ちゃんと釣り合ってるのはわかった」
軽い男だ。
だが、悪意は薄れたようだった。
「それに、俺も悪かったな」
剛覇は蘭を見た。
「見た瞬間、逃したら後悔すると思った。強さに惚れた。だから強引に行った」
「行かない」
「もうわかったって」
剛覇は両手を上げた。
「剛理がいるなら、そっちでいい。割り込む気はなくなった」
蘭はまだ少し睨んでいた。
剛覇は苦笑する。
「ただ、次に会った時はまた戦えよ。お前たち二人ともな」
「それならいい」
蘭が短く答えた。
いいのか。
戦いならいいのか。
剛力王国だ。
感情の整理まで戦いで済ませるな。
剛真は満足そうに頷いている。
「剛理。肉体、技、魔法。面白いな」
私は剛真を見る。
「評価は?」
「悪くない。若い長としてはかなり上だ」
悪くない。
かなり上。
剛真の口から出ると、重みがある。
「長順と役割は後で正式に決める。だが、少なくともただの村長として埋もれさせるには惜しいな」
その言葉に、私は背筋を伸ばした。
これが最初の一歩だ。
長会議で、力を示す。
発言権を得る。
理知帝国への備えを進める。
そのための道が、少しだけ開けた。
ただし、同時に一つ学んだこともある。
私はまだ、自分の全力をきちんと使い切れていなかった。
肉体だけでもない。
魔法だけでもない。
理知だけでもない。
今の私は、その全部を持っている。
そして、蘭はそれを見ていた。
私が忘れていた力を、蘭が思い出させた。
私は隣の蘭を見る。
蘭は私の袖を掴んだまま、剛覇を少しだけ睨んでいた。
たぶん、まだ少し怒っている。
その横顔を見て、私は思った。
連れてきてよかったのかもしれない。
少なくとも、今日の私は蘭がいなければ、自分の全力を出し損ねていた。
父の「駄目と言われたら力で黙らせればいい」という言葉は、やはりおかしい。
だが、結果だけ見れば、蘭を連れてきたことは間違いではなかった。
剛力王国は、本当に厄介だ。
おかしい理屈が、時々正解になる。




