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続きそうな短編集

あの夏の白球を越えて

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/06/11

 帽子を取った瞬間、汗がつばの先から落ちた。


 豪河ごうが尋史ひろふみはそれを手の甲でぬぐい、もう一度ホームベースを見た。


 7回2死三塁。スコアは2-1。あと一人を抑えれば、二年ぶりの一軍復帰戦で、勝利投手の権利を持ったままマウンドを降りられる。


 球場の照明は白く、まぶしかった。


 歓声は遠い。耳には届いている。けれど、水の底から聞こえるように輪郭がぼやけていた。右肘の内側には、手術の痕がある。もう目立たないほど薄くなった傷だが、全力で腕を振るたび、そこに別の身体が縫いつけられているような違和感が残った。


 全盛期なら、ここで迷わなかった。


 155km/hを超える直球を、捕手のミット目がけて叩き込む。それだけでよかった。打者は振り遅れ、あるいはバットを出すことすらできずに見送る。尋史にとって野球とは、積み上げた努力の質と量を、白球に乗せて相手へぶつける競技だった。


 だが今夜、電光掲示板に並ぶ数字は140km台後半で止まっている。


 それでも、ここまで来た。


 前の打者は三振に取った。あと一人。たった一人でいい。三塁走者を返さずにこの回を終える。それだけで、尋史は二年間の空白に一つの答えを出せる。


 相手ベンチが動いた。


 監督が球審に歩み寄り、代打を告げる。スタンドのざわめきが、わずかに色を変えた。ネクストバッターサークルから、一人の男がのそのそと立ち上がる。


 ヘルメットの下で、赤い髪が揺れた。


 ガムを噛みながら、気だるげにバットを肩へ乗せている。歩く速度まで人を苛立たせるような、あの歩き方。尋史は思わず息を吐いた。


 球審が告げる。


「代打、赤井」


 その名を聞いた瞬間、尋史の胸の奥で、古い夏の音が鳴った。




 あの日の空も、白かった。


 夏の地方大会初戦。仏玖大付属の2年生エースだった尋史は、県立西高を相手に、9回裏1死まで無安打に抑えていた。


 スコアは6-0。


 完全試合ではない。四球を一つ出していた。だが、打たれた球は一本もない。外野の芝は日に焼け、スタンドの応援も7回あたりから熱を失っていた。相手ベンチの声だけが、乾いたグラウンドに残っている。


 尋史はそれが嫌いではなかった。


 最後まで声を出す弱者。どれだけ力の差を見せつけられても、白球を追おうとする者たち。その姿に同情はなかったが、敬意はあった。だからこそ、手を抜かない。正面からねじ伏せる。それが尋史の礼儀だった。


 才能とは、努力を積み上げた先にあるものだと思っていた。


 走り込み、投げ込み、食事を管理し、眠る時間まで削って球速を磨く。肩甲骨の動き、指先の感覚、踏み込む足の角度。積み上げたものが、マウンドで自分を支えてくれる。


 そう信じていた。


 9回裏1死。


 西高ベンチが代打を告げた。


 出てきたのは、小柄な打者だった。170cmあるかないか。筋肉質ではあったが、ユニフォームの着方はだらしなく、手には使い込まれた木製バットを持っていた。


 高校野球で木製バットを使う者は珍しい。こだわりなのか、金がないのか、尋史には分からなかった。少なくとも、名門校の選手が持つような、手入れの行き届いた道具には見えなかった。


 打者は打席に入り、軽くバットを回した。


 その目が、面倒くさそうに尋史を見た。


 腹が立った。


 ここまで無安打に抑えられ、試合もほとんど決まっている。代打で出てきたなら、せめて必死さくらい見せろ。尋史はそう思った。


 初球。


 外角高めへ直球。148km/h。


 打者は動かなかった。


「ストライク!」


 二球目。


 今度は内角へ149km/h。


 これも見送った。バットを出す気配すらない。捕手が返球してくる。尋史はボールを受け取りながら、打者の顔を見た。


 眠そうな目をしていた。


 ただ、妙だった。


 構えは雑なのに、目だけが動かない。バットを揺らす手首は力んでいない。打つ気がないのではない。待っているのだと、尋史は三球目を投げる直前になって気づいた。


 けれど、遅かった。


 捕手のサインは内角高め。


 尋史は首を振らなかった。自分が一番自信を持っている場所だった。長身から投げ下ろす直球が、打者の胸元へ食い込む。高校生が反応できる球ではない。


 振りかぶる。


 踏み込む。


 腕を振る。


 指先から白球が離れた瞬間、尋史は三振を確信した。


 打者は振った。


 乾いた音ではなかった。


 木が、白球を芯で噛み砕いたような、鈍く、深い音だった。


 打球は尋史の頭上を越えた。外野手が一歩も動けないまま、白い点はバックスクリーンへ吸い込まれていった。


 ノーヒットノーランは消えた。


 完封も消えた。


 スタンドがどよめく。西高ベンチが沸く。打者は特に喜ぶでもなく、一塁へ走り出した。小柄な背中が、ダイヤモンドを淡々と回っていく。


 試合は6-1で仏玖大付属が勝った。


 新聞には翌日、小さく「西高・赤井、豪河から9回1死本塁打」とだけ載った。


 尋史は勝者だった。


 けれど、その夏からずっと、勝った気がしなかった。


 打たれたことが悔しかったのではない。


 理由が分からなかったことが、耐えられなかった。


 自分が積み上げてきたものの結晶を、名前も知らない小柄な代打が、何でもない顔で運んだ。その一振りに、尋史は説明をつけられなかった。


 まぐれだと思いたかった。


 けれど、あれはまぐれではなかった。


 そのことだけは、マウンドにいた尋史が一番よく知っていた。




 高卒ドラフト1位でプロに入った尋史は、一年目から勝った。


 防御率2点台。10勝。新人王。奪三振タイトル。


 世間は彼を、次代のエースと呼んだ。テレビカメラの前で笑うことにも慣れた。新聞に大きく載ることにも、球場で名前を叫ばれることにも慣れた。


 ただ、慣れないものが一つだけあった。


 あの本塁打だった。


 プロの打者を相手にしても、尋史のインハイ直球はそう簡単に打たれなかった。空振りを奪い、バットをへし折り、内角を意識させた上で外の変化球を振らせる。自分の球は通用する。それを確かめるほど、あの夏の一本が分からなくなった。


 あの打者は、何者だったのか。


 赤井あかい玲二れいじ


 地方大会の記録に残る、小さな名前。


 尋史は何度も忘れようとした。けれど、シーズンが終わり、地元へ戻った冬の日、忘れようとした名前の方から、不意に目の前へ現れた。


 古いバッティングセンターの前を通ったときだった。


 異様な音が聞こえた。


 金属バットの高い音ではない。木が鳴る音だった。けれど、普通の木製バットの音でもない。もっと深く、もっと重い。打球が空気を裂いたあと、奥のネットが悲鳴のように揺れる。


 尋史は足を止めた。


 ネットの向こうで、一人の男がバットを振っていた。赤い髪。くたびれた上着。足元には泥のついた作業靴。投球マシンから放たれる球を、男は淡々と打ち返していた。


 打球はことごとく、奥のネット上段へ突き刺さる。


 ホームランの表示板が、壊れた玩具のように光り続けていた。


「赤井玲二」


 尋史が声をかけると、男は振り返った。


 あの眠そうな目が、少しだけ細くなる。


「誰かと思えば、新人王じゃねぇか」


「野球、やめたのか」


「見りゃ分かんだろ。農家だよ」


「高校は」


「途中でやめた。指導が合わねぇ」


「お前が合わせなかっただけだろ」


「似たようなもんだ」


 玲二はガムを噛み直し、手元の木製バットを肩に担いだ。あの夏と同じバットに見えた。傷だらけで、黒ずみ、何度も手入れされた跡がある。


「まだ、それ使ってるのか」


「昔から一本しか持ってねぇよ。お前と違って金がないんだから、折ってくれるなよ、新人王」


「勝負しろ」


「は?」


「今からだ」


 玲二は露骨に嫌な顔をした。


「面倒くせぇ」


「頼む」


「プロが素人相手に何ムキになってんだよ」


「素人じゃない」


 その言葉に、玲二の表情がわずかに変わった。


 夕方の河川敷には、冬の風が吹いていた。草は枯れ、川面は鈍く光っている。尋史は上着を脱ぎ、軽く肩を回した。捕手はいない。地元の後輩を無理やり呼び出し、ミットを構えさせた。


 玲二は土手の上であくびをした。


「三球でいいな」


「十分だ」


「負けても泣くなよ」


「泣かせてみろ」


「うわ、プロって面倒くせぇ」


 一球目。


 外角の直球。


 玲二は見送った。


 二球目。


 内角の直球。


 また見送った。


 あの夏と同じだった。


 尋史の胸の奥で、何かが熱くなる。怒りではなかった。恐怖でもない。もっと厄介で、もっと懐かしいものだった。


 三球目。


 尋史は全力で腕を振った。


 インハイ。


 白球が走る。


 玲二のバットが出た。


 音がした。


 白球は夕日に一度だけ白く光り、尋史の頭上をはるかに越えた。隣を流れる川へ落ちる。遅れて、水柱が立った。


 その音を聞いても、尋史は振り返らなかった。


 見るまでもなかった。


 また、打たれた。


 そしてなぜか、笑っていた。


「お前、球軽くなったんじゃねぇ?」


 玲二がバットを肩に乗せて言った。


「かもな」


「怒んねぇのかよ」


「怒るより先に、頼みがある」


「なんだよ」


「野球やれ」


 玲二は眉をひそめた。


「やめたって言ったろ」


「なら、もう一度やれ」


「理由は」


「お前を抑えないと、俺は先へ行けない」


 川風が二人の間を抜けた。


 玲二はしばらく黙っていた。やがて、面倒くさそうに頭をかき、赤い髪をくしゃりと揺らした。


「練習、嫌いなんだけどな」


「だろうな」


「監督とかコーチとか、たぶん殴りたくなるぞ」


「殴るな」


「善処する」


「する気ないだろ」


「ねぇな」


 尋史は笑った。


 それが、二人の始まりだった。


 


 そこから先は、騒がしかった。


 尋史はあちこちへ頭を下げた。独立リーグの地元球団に話をつけ、入団テストに玲二をねじ込んだ。


 テストの日、尋史はネット裏にいた。


 一打席目で、スカウトたちが姿勢を正した。


 二打席目で、誰もメモを取らなくなった。


 三打席目で、球場が笑った。


 あまりに馬鹿げた飛距離だったからだ。


 玲二は農作業と掛け持ちしながら試合に出た。午前中は畑にいて、午後から球場に現れ、ろくにアップもせず打席に立つ。そして、打つ。外野フェンスを越える。照明塔に当てる。場外へ消す。


 数字は冗談のように積み上がった。


 やがてプロ球団が、育成で玲二を指名した。


 その年、尋史は肘を壊した。


 最初は違和感だった。


 投げ終わったあと、右肘の奥に小さな針が残るような感覚があった。次に、それは痛みになった。最後には、ボールを握るだけで汗がにじむようになった。


 診断は避けようがなかった。


 靭帯損傷。


 トミー・ジョン手術。


 長期離脱。


 復帰まで、少なくとも二年。


 白い病室の天井を見ながら、尋史は初めて、自分の身体が有限であることを知った。


 リハビリの日々は、野球ではなかった。


 チューブを引き、肘を曲げ、肩甲骨を動かす。投げる以前の動作を、赤ん坊のように繰り返す。マウンドへ戻るために、マウンドから一番遠い場所で、身体の部品を一つずつ組み直していく。


 テレビの向こうでは、玲二が打っていた。


 練習嫌い。


 素行不良。


 赤髪問題児。


 そんな言葉と一緒に報じられながら、打席に立てば結果を出した。二軍でコーチと揉め、一軍に上がり、代打で本塁打を打つ。首脳陣と衝突し、翌日にまた本塁打を打つ。


 尋史は腹が立った。


 真面目に積み上げてきた自分が投げられず、あの男は平然と打っている。


 玲二が打つたび、尋史はテレビを消したくなった。


 だが、消せなかった。


 自分の投げる理由を、あの赤い髪の男が勝手に生かし続けていた。


 あいつを抑えたい。


 その思いだけは、リハビリ室の白い壁にも、手術痕の痛みにも、薄められることがなかった。




 そして今、赤井玲二が打席に入った。


 球場のざわめきが膨らんでいる。相手ベンチは逆転を望み、味方ベンチは尋史の続投を信じている。捕手が一度マウンドへ来ようとしたが、尋史は手で制した。


 玲二は打席の手前で立ち止まり、バットの先でホームベースを軽く叩いた。


 ヘルメットの下で、赤い髪が揺れる。口の端だけが、わずかに上がった。


 相変わらずだな。


 尋史はそう思い、帽子のつばを指で押し下げた。


 玲二もまた、昔と同じ目をしていた。

 面倒くさそうで、ふざけていて、それでいて白球だけは決して見失わない目。


 捕手のサインを見る。


 初球。


 外角直球。


 146km/h。


 玲二は見送った。


「ストライク!」


 どよめきが起こる。玲二は打席の中で首を回し、ガムを噛んだ。打つ気がないのではない。待っている。


 二球目。


 内角高め。


 148km/h。


 玲二はまた見送った。


 スタンドの空気が、あの夏に近づいていく。


 尋史には分かっていた。捕手も分かっている。おそらく玲二も分かっている。


 次に投げる球は、一つしかない。


 インハイの直球。


 かつての尋史なら、それは力の証明だった。誰よりも速く、誰よりも強く、打者の懐へ突き刺す球。


 だが今は違う。


 速度は戻っていない。肘は時折、鈍くうずく。もう、若さだけで押し切れる身体ではない。


 それでも、リハビリの二年があった。


 指先にかかる縫い目の感触。踏み込む足の角度。肩が開く寸前の我慢。球速表示には出ない、わずかな回転と軌道。失ったものの代わりに拾い集めた、細かな野球の欠片。


 尋史はセットに入った。


 三塁走者が小さくリードを取る。


 玲二の赤い髪が、ヘルメットの下で揺れる。


 捕手がミットを構えた。


 尋史は足を上げた。


 腕を振る。


 白球が、内角高めへ伸びていく。


 玲二の目が細くなった。


 バットが出た。


 音は、鈍かった。


 真芯で捉えたはずなのに、どこか欠けたような音。木製バットの先端が小さく飛び、白い破片が宙に舞った。


 打球は一瞬、詰まったように見えた。


 だが、落ちない。


 センターが背走する。フェンス際で振り返る。さらに一歩下がり、ジャンプした。グラブの先が白球をかすめる。


 そのまま、打球はスタンドへ消えた。


 球場が爆発した。


 三塁走者がホームを踏む。


 続いて、玲二がゆっくりとダイヤモンドを回る。


 スコアボードの数字が変わった。


 2-3。


 尋史の復帰初勝利は消えた。


 それどころか、敗戦の責任だけが、マウンドに残った。


 玲二は二塁を回りながら、欠けたバットを見て何か文句を言っていた。どうせ「弁償しろ」か「だから折るなって言ったろ」あたりだろう。


 尋史は振り返らなかった。


 帽子のつばを下げる。


 その陰で、静かに笑った。


 打たれた。


 また打たれた。


 それでも、あの夏とは違う。河川敷の夕暮れとも違う。玲二のバットは欠けた。尋史の球は、確かにあの男の芯をずらした。


 完全に負けたわけではない。


 完全に勝ったわけでもない。


 だから、続く。


 玲二が三塁を回る。ホームへ向かう途中で、ちらりとマウンドを見た。


 相変わらず腹の立つ顔をしている。


 尋史は帽子のつばの陰で、少しだけ笑った。


 ――球、軽くなったんじゃねぇ?


 あの河川敷で言われた声が、胸の奥によみがえる。


 尋史は小さく息を吐いた。


 審判が新しいボールを投げる。


 尋史はそれを受け取った。


 指先に縫い目をかける。右肘の奥が、かすかに痛んだ。痛みは消えない。球速も戻らない。これから先、二度と昔の自分には戻れないのかもしれない。


 それでも、投げたいと思った。


 もっと良い球を。


 もっと厄介な球を。


 いつか、あの赤い髪の打者が本当に黙るような一球を。


 ベンチから監督が出てくる気配がした。交代かもしれない。続投かもしれない。どちらでもよかった。今の尋史には、失った白星よりも、胸の奥に戻ってきたものの方が大きかった。


 悔しさ。


 怒り。


 執着。


 そして、それら全部をまとめて野球と呼びたくなるような、熱。


 歓声の残響の中で、尋史はゆっくりとマウンドの土をならした。


 あの夏、バックスクリーンへ消えた白球。


 河川敷の夕日に光り、川へ落ちた白球。


 そして今、スタンドへ消えていった白球。


 そのどれもが、尋史から勝利を奪った。


 だが同時に、そのどれもが、尋史をここまで連れてきた。


 監督がマウンドへ向かってくる。


 尋史は顔を上げた。


 まだ投げられる。


 その言葉を口にするより先に、右手の中のボールを握り直した。


 豪河尋史の野球人生は、ここから始まる。




お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は、剛腕投手と天才打者の「勝った負けた」だけでは終わらない関係を書いてみました。

スポーツものではありますが、書きたかったのは野球の細かな技術論というより、

「どうしても忘れられない一球」

「自分を壊した相手が、同時に自分を前へ進ませてくれること」

のような感情です。


豪河にとって赤井は、腹立たしくて、理解できなくて、それでも絶対に目を逸らせない相手です。

赤井にとっても豪河は、面倒くさいけれど、自分を本気にさせる数少ない存在なのだと思います。

勝負は一度で終わらず、人生の中で何度も形を変えて続いていく。

そんなライバル関係を書けていたら嬉しいです。


ちなみに、赤井は協調性が皆無なので、野球選手の友人は豪河しかいません。

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― 新着の感想 ―
おもしろいです! 良いお話しですね。 まさに「続きそうな短編」ですね。 続きも読んでみたいです(^^)
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