あの夏の白球を越えて
帽子を取った瞬間、汗がつばの先から落ちた。
豪河尋史はそれを手の甲でぬぐい、もう一度ホームベースを見た。
7回2死三塁。スコアは2-1。あと一人を抑えれば、二年ぶりの一軍復帰戦で、勝利投手の権利を持ったままマウンドを降りられる。
球場の照明は白く、まぶしかった。
歓声は遠い。耳には届いている。けれど、水の底から聞こえるように輪郭がぼやけていた。右肘の内側には、手術の痕がある。もう目立たないほど薄くなった傷だが、全力で腕を振るたび、そこに別の身体が縫いつけられているような違和感が残った。
全盛期なら、ここで迷わなかった。
155km/hを超える直球を、捕手のミット目がけて叩き込む。それだけでよかった。打者は振り遅れ、あるいはバットを出すことすらできずに見送る。尋史にとって野球とは、積み上げた努力の質と量を、白球に乗せて相手へぶつける競技だった。
だが今夜、電光掲示板に並ぶ数字は140km台後半で止まっている。
それでも、ここまで来た。
前の打者は三振に取った。あと一人。たった一人でいい。三塁走者を返さずにこの回を終える。それだけで、尋史は二年間の空白に一つの答えを出せる。
相手ベンチが動いた。
監督が球審に歩み寄り、代打を告げる。スタンドのざわめきが、わずかに色を変えた。ネクストバッターサークルから、一人の男がのそのそと立ち上がる。
ヘルメットの下で、赤い髪が揺れた。
ガムを噛みながら、気だるげにバットを肩へ乗せている。歩く速度まで人を苛立たせるような、あの歩き方。尋史は思わず息を吐いた。
球審が告げる。
「代打、赤井」
その名を聞いた瞬間、尋史の胸の奥で、古い夏の音が鳴った。
◆
あの日の空も、白かった。
夏の地方大会初戦。仏玖大付属の2年生エースだった尋史は、県立西高を相手に、9回裏1死まで無安打に抑えていた。
スコアは6-0。
完全試合ではない。四球を一つ出していた。だが、打たれた球は一本もない。外野の芝は日に焼け、スタンドの応援も7回あたりから熱を失っていた。相手ベンチの声だけが、乾いたグラウンドに残っている。
尋史はそれが嫌いではなかった。
最後まで声を出す弱者。どれだけ力の差を見せつけられても、白球を追おうとする者たち。その姿に同情はなかったが、敬意はあった。だからこそ、手を抜かない。正面からねじ伏せる。それが尋史の礼儀だった。
才能とは、努力を積み上げた先にあるものだと思っていた。
走り込み、投げ込み、食事を管理し、眠る時間まで削って球速を磨く。肩甲骨の動き、指先の感覚、踏み込む足の角度。積み上げたものが、マウンドで自分を支えてくれる。
そう信じていた。
9回裏1死。
西高ベンチが代打を告げた。
出てきたのは、小柄な打者だった。170cmあるかないか。筋肉質ではあったが、ユニフォームの着方はだらしなく、手には使い込まれた木製バットを持っていた。
高校野球で木製バットを使う者は珍しい。こだわりなのか、金がないのか、尋史には分からなかった。少なくとも、名門校の選手が持つような、手入れの行き届いた道具には見えなかった。
打者は打席に入り、軽くバットを回した。
その目が、面倒くさそうに尋史を見た。
腹が立った。
ここまで無安打に抑えられ、試合もほとんど決まっている。代打で出てきたなら、せめて必死さくらい見せろ。尋史はそう思った。
初球。
外角高めへ直球。148km/h。
打者は動かなかった。
「ストライク!」
二球目。
今度は内角へ149km/h。
これも見送った。バットを出す気配すらない。捕手が返球してくる。尋史はボールを受け取りながら、打者の顔を見た。
眠そうな目をしていた。
ただ、妙だった。
構えは雑なのに、目だけが動かない。バットを揺らす手首は力んでいない。打つ気がないのではない。待っているのだと、尋史は三球目を投げる直前になって気づいた。
けれど、遅かった。
捕手のサインは内角高め。
尋史は首を振らなかった。自分が一番自信を持っている場所だった。長身から投げ下ろす直球が、打者の胸元へ食い込む。高校生が反応できる球ではない。
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振る。
指先から白球が離れた瞬間、尋史は三振を確信した。
打者は振った。
乾いた音ではなかった。
木が、白球を芯で噛み砕いたような、鈍く、深い音だった。
打球は尋史の頭上を越えた。外野手が一歩も動けないまま、白い点はバックスクリーンへ吸い込まれていった。
ノーヒットノーランは消えた。
完封も消えた。
スタンドがどよめく。西高ベンチが沸く。打者は特に喜ぶでもなく、一塁へ走り出した。小柄な背中が、ダイヤモンドを淡々と回っていく。
試合は6-1で仏玖大付属が勝った。
新聞には翌日、小さく「西高・赤井、豪河から9回1死本塁打」とだけ載った。
尋史は勝者だった。
けれど、その夏からずっと、勝った気がしなかった。
打たれたことが悔しかったのではない。
理由が分からなかったことが、耐えられなかった。
自分が積み上げてきたものの結晶を、名前も知らない小柄な代打が、何でもない顔で運んだ。その一振りに、尋史は説明をつけられなかった。
まぐれだと思いたかった。
けれど、あれはまぐれではなかった。
そのことだけは、マウンドにいた尋史が一番よく知っていた。
◆
高卒ドラフト1位でプロに入った尋史は、一年目から勝った。
防御率2点台。10勝。新人王。奪三振タイトル。
世間は彼を、次代のエースと呼んだ。テレビカメラの前で笑うことにも慣れた。新聞に大きく載ることにも、球場で名前を叫ばれることにも慣れた。
ただ、慣れないものが一つだけあった。
あの本塁打だった。
プロの打者を相手にしても、尋史のインハイ直球はそう簡単に打たれなかった。空振りを奪い、バットをへし折り、内角を意識させた上で外の変化球を振らせる。自分の球は通用する。それを確かめるほど、あの夏の一本が分からなくなった。
あの打者は、何者だったのか。
赤井玲二。
地方大会の記録に残る、小さな名前。
尋史は何度も忘れようとした。けれど、シーズンが終わり、地元へ戻った冬の日、忘れようとした名前の方から、不意に目の前へ現れた。
古いバッティングセンターの前を通ったときだった。
異様な音が聞こえた。
金属バットの高い音ではない。木が鳴る音だった。けれど、普通の木製バットの音でもない。もっと深く、もっと重い。打球が空気を裂いたあと、奥のネットが悲鳴のように揺れる。
尋史は足を止めた。
ネットの向こうで、一人の男がバットを振っていた。赤い髪。くたびれた上着。足元には泥のついた作業靴。投球マシンから放たれる球を、男は淡々と打ち返していた。
打球はことごとく、奥のネット上段へ突き刺さる。
ホームランの表示板が、壊れた玩具のように光り続けていた。
「赤井玲二」
尋史が声をかけると、男は振り返った。
あの眠そうな目が、少しだけ細くなる。
「誰かと思えば、新人王じゃねぇか」
「野球、やめたのか」
「見りゃ分かんだろ。農家だよ」
「高校は」
「途中でやめた。指導が合わねぇ」
「お前が合わせなかっただけだろ」
「似たようなもんだ」
玲二はガムを噛み直し、手元の木製バットを肩に担いだ。あの夏と同じバットに見えた。傷だらけで、黒ずみ、何度も手入れされた跡がある。
「まだ、それ使ってるのか」
「昔から一本しか持ってねぇよ。お前と違って金がないんだから、折ってくれるなよ、新人王」
「勝負しろ」
「は?」
「今からだ」
玲二は露骨に嫌な顔をした。
「面倒くせぇ」
「頼む」
「プロが素人相手に何ムキになってんだよ」
「素人じゃない」
その言葉に、玲二の表情がわずかに変わった。
夕方の河川敷には、冬の風が吹いていた。草は枯れ、川面は鈍く光っている。尋史は上着を脱ぎ、軽く肩を回した。捕手はいない。地元の後輩を無理やり呼び出し、ミットを構えさせた。
玲二は土手の上であくびをした。
「三球でいいな」
「十分だ」
「負けても泣くなよ」
「泣かせてみろ」
「うわ、プロって面倒くせぇ」
一球目。
外角の直球。
玲二は見送った。
二球目。
内角の直球。
また見送った。
あの夏と同じだった。
尋史の胸の奥で、何かが熱くなる。怒りではなかった。恐怖でもない。もっと厄介で、もっと懐かしいものだった。
三球目。
尋史は全力で腕を振った。
インハイ。
白球が走る。
玲二のバットが出た。
音がした。
白球は夕日に一度だけ白く光り、尋史の頭上をはるかに越えた。隣を流れる川へ落ちる。遅れて、水柱が立った。
その音を聞いても、尋史は振り返らなかった。
見るまでもなかった。
また、打たれた。
そしてなぜか、笑っていた。
「お前、球軽くなったんじゃねぇ?」
玲二がバットを肩に乗せて言った。
「かもな」
「怒んねぇのかよ」
「怒るより先に、頼みがある」
「なんだよ」
「野球やれ」
玲二は眉をひそめた。
「やめたって言ったろ」
「なら、もう一度やれ」
「理由は」
「お前を抑えないと、俺は先へ行けない」
川風が二人の間を抜けた。
玲二はしばらく黙っていた。やがて、面倒くさそうに頭をかき、赤い髪をくしゃりと揺らした。
「練習、嫌いなんだけどな」
「だろうな」
「監督とかコーチとか、たぶん殴りたくなるぞ」
「殴るな」
「善処する」
「する気ないだろ」
「ねぇな」
尋史は笑った。
それが、二人の始まりだった。
◆
そこから先は、騒がしかった。
尋史はあちこちへ頭を下げた。独立リーグの地元球団に話をつけ、入団テストに玲二をねじ込んだ。
テストの日、尋史はネット裏にいた。
一打席目で、スカウトたちが姿勢を正した。
二打席目で、誰もメモを取らなくなった。
三打席目で、球場が笑った。
あまりに馬鹿げた飛距離だったからだ。
玲二は農作業と掛け持ちしながら試合に出た。午前中は畑にいて、午後から球場に現れ、ろくにアップもせず打席に立つ。そして、打つ。外野フェンスを越える。照明塔に当てる。場外へ消す。
数字は冗談のように積み上がった。
やがてプロ球団が、育成で玲二を指名した。
その年、尋史は肘を壊した。
最初は違和感だった。
投げ終わったあと、右肘の奥に小さな針が残るような感覚があった。次に、それは痛みになった。最後には、ボールを握るだけで汗がにじむようになった。
診断は避けようがなかった。
靭帯損傷。
トミー・ジョン手術。
長期離脱。
復帰まで、少なくとも二年。
白い病室の天井を見ながら、尋史は初めて、自分の身体が有限であることを知った。
リハビリの日々は、野球ではなかった。
チューブを引き、肘を曲げ、肩甲骨を動かす。投げる以前の動作を、赤ん坊のように繰り返す。マウンドへ戻るために、マウンドから一番遠い場所で、身体の部品を一つずつ組み直していく。
テレビの向こうでは、玲二が打っていた。
練習嫌い。
素行不良。
赤髪問題児。
そんな言葉と一緒に報じられながら、打席に立てば結果を出した。二軍でコーチと揉め、一軍に上がり、代打で本塁打を打つ。首脳陣と衝突し、翌日にまた本塁打を打つ。
尋史は腹が立った。
真面目に積み上げてきた自分が投げられず、あの男は平然と打っている。
玲二が打つたび、尋史はテレビを消したくなった。
だが、消せなかった。
自分の投げる理由を、あの赤い髪の男が勝手に生かし続けていた。
あいつを抑えたい。
その思いだけは、リハビリ室の白い壁にも、手術痕の痛みにも、薄められることがなかった。
◆
そして今、赤井玲二が打席に入った。
球場のざわめきが膨らんでいる。相手ベンチは逆転を望み、味方ベンチは尋史の続投を信じている。捕手が一度マウンドへ来ようとしたが、尋史は手で制した。
玲二は打席の手前で立ち止まり、バットの先でホームベースを軽く叩いた。
ヘルメットの下で、赤い髪が揺れる。口の端だけが、わずかに上がった。
相変わらずだな。
尋史はそう思い、帽子のつばを指で押し下げた。
玲二もまた、昔と同じ目をしていた。
面倒くさそうで、ふざけていて、それでいて白球だけは決して見失わない目。
捕手のサインを見る。
初球。
外角直球。
146km/h。
玲二は見送った。
「ストライク!」
どよめきが起こる。玲二は打席の中で首を回し、ガムを噛んだ。打つ気がないのではない。待っている。
二球目。
内角高め。
148km/h。
玲二はまた見送った。
スタンドの空気が、あの夏に近づいていく。
尋史には分かっていた。捕手も分かっている。おそらく玲二も分かっている。
次に投げる球は、一つしかない。
インハイの直球。
かつての尋史なら、それは力の証明だった。誰よりも速く、誰よりも強く、打者の懐へ突き刺す球。
だが今は違う。
速度は戻っていない。肘は時折、鈍くうずく。もう、若さだけで押し切れる身体ではない。
それでも、リハビリの二年があった。
指先にかかる縫い目の感触。踏み込む足の角度。肩が開く寸前の我慢。球速表示には出ない、わずかな回転と軌道。失ったものの代わりに拾い集めた、細かな野球の欠片。
尋史はセットに入った。
三塁走者が小さくリードを取る。
玲二の赤い髪が、ヘルメットの下で揺れる。
捕手がミットを構えた。
尋史は足を上げた。
腕を振る。
白球が、内角高めへ伸びていく。
玲二の目が細くなった。
バットが出た。
音は、鈍かった。
真芯で捉えたはずなのに、どこか欠けたような音。木製バットの先端が小さく飛び、白い破片が宙に舞った。
打球は一瞬、詰まったように見えた。
だが、落ちない。
センターが背走する。フェンス際で振り返る。さらに一歩下がり、ジャンプした。グラブの先が白球をかすめる。
そのまま、打球はスタンドへ消えた。
球場が爆発した。
三塁走者がホームを踏む。
続いて、玲二がゆっくりとダイヤモンドを回る。
スコアボードの数字が変わった。
2-3。
尋史の復帰初勝利は消えた。
それどころか、敗戦の責任だけが、マウンドに残った。
玲二は二塁を回りながら、欠けたバットを見て何か文句を言っていた。どうせ「弁償しろ」か「だから折るなって言ったろ」あたりだろう。
尋史は振り返らなかった。
帽子のつばを下げる。
その陰で、静かに笑った。
打たれた。
また打たれた。
それでも、あの夏とは違う。河川敷の夕暮れとも違う。玲二のバットは欠けた。尋史の球は、確かにあの男の芯をずらした。
完全に負けたわけではない。
完全に勝ったわけでもない。
だから、続く。
玲二が三塁を回る。ホームへ向かう途中で、ちらりとマウンドを見た。
相変わらず腹の立つ顔をしている。
尋史は帽子のつばの陰で、少しだけ笑った。
――球、軽くなったんじゃねぇ?
あの河川敷で言われた声が、胸の奥によみがえる。
尋史は小さく息を吐いた。
審判が新しいボールを投げる。
尋史はそれを受け取った。
指先に縫い目をかける。右肘の奥が、かすかに痛んだ。痛みは消えない。球速も戻らない。これから先、二度と昔の自分には戻れないのかもしれない。
それでも、投げたいと思った。
もっと良い球を。
もっと厄介な球を。
いつか、あの赤い髪の打者が本当に黙るような一球を。
ベンチから監督が出てくる気配がした。交代かもしれない。続投かもしれない。どちらでもよかった。今の尋史には、失った白星よりも、胸の奥に戻ってきたものの方が大きかった。
悔しさ。
怒り。
執着。
そして、それら全部をまとめて野球と呼びたくなるような、熱。
歓声の残響の中で、尋史はゆっくりとマウンドの土をならした。
あの夏、バックスクリーンへ消えた白球。
河川敷の夕日に光り、川へ落ちた白球。
そして今、スタンドへ消えていった白球。
そのどれもが、尋史から勝利を奪った。
だが同時に、そのどれもが、尋史をここまで連れてきた。
監督がマウンドへ向かってくる。
尋史は顔を上げた。
まだ投げられる。
その言葉を口にするより先に、右手の中のボールを握り直した。
豪河尋史の野球人生は、ここから始まる。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
今回は、剛腕投手と天才打者の「勝った負けた」だけでは終わらない関係を書いてみました。
スポーツものではありますが、書きたかったのは野球の細かな技術論というより、
「どうしても忘れられない一球」
「自分を壊した相手が、同時に自分を前へ進ませてくれること」
のような感情です。
豪河にとって赤井は、腹立たしくて、理解できなくて、それでも絶対に目を逸らせない相手です。
赤井にとっても豪河は、面倒くさいけれど、自分を本気にさせる数少ない存在なのだと思います。
勝負は一度で終わらず、人生の中で何度も形を変えて続いていく。
そんなライバル関係を書けていたら嬉しいです。
ちなみに、赤井は協調性が皆無なので、野球選手の友人は豪河しかいません。




