第十四話「夜の始まり」②
ジャンヌはゆっくりと膝を立て、立ち上がった。足元がわずかにふらついた。首筋の鈍い痛みが、まだそこにあった。
「……すみませんでした」
と夜久は言った。声が掠れていた。
「この村を、こういう状況に追い込んだのは、俺の行動が引き金でした」
ジャンヌは夜久を見た。
「……謝るのは、私の方です」
とジャンヌは言った。
「確かめもせずに、あなたに剣を向けました。神のお告げに従い、あなたを異分子と判断して——でも、あなたは私を斬らなかった」
「神のお告げ、というのは」
と夜久は言った。
「どういうことですか」
「神の声が聞こえるんです」
とジャンヌは言った。躊躇はなかった。戦場でも何百回と語ってきた言葉だった。
「戦場で迷ったとき、どこへ向かうべきか、何をすべきか——声が告げてくれます。その声に従ってきたから、今まで勝ち続けてきた。だから、聖女と呼ばれるようになりました」
「その声が、俺を排除しろと」
「村へ急げ、村を守れ、異分子を排除せよ、と」
とジャンヌは言った。
「あなたのことが異分子だとは、明言されていませんでした。ただ、この惨状の中心に、見たことのない装束で剣を持った人間がいた。それだけで、私は——」
「理由を聞いてもいいですか」
とジャンヌは続けた。
「なぜ、斬らなかったのか」
夜久はしばらく黙っていた。石畳を見て、一度目を閉じた。何か迷っているわけではないようだった。ただ、言葉を探しているというより、言葉にするほどのことでもない、という顔をしていた。それから顔を上げた。
「女の子には、手を上げない」
と夜久は言った。
それだけだった。説明でも言い訳でもない。ただ、そういうことだ、という言い方だった。
思わず、声が出た。短く、小さく。でも確かに笑い声だった。先ほどまであれほどの剣を振るっていた男が——王国の精鋭でも手に余るような、信じがたい動きをしていた男が——出した答えが、それだった。首筋の痛みも、さっきまでの緊張も、その一瞬だけどこかへ行った。
「あんなに強いのに、理由がそれなんですか」
とジャンヌは言った。
「そうですが」
と夜久は言った。特に傷ついた様子もなかった。
それがまたおかしくて、もう少し笑ってしまった。
「いや」
と夜久は言った。その顔が、わずかだけ緩んでいた。
「笑ってもらえる方が、助かります」
少しの間があった。炎の爆ぜる音だけが、二人の間にあった。
「あなたのお名前を、聞いてもいいですか」
とジャンヌは言った。
「夜久です。月村夜久」
「夜久くん、ですね」
「夜久で構いません」
と夜久は言った。
「あなたも、ジャンヌさんと呼んでいいですか」
「ジャンヌで結構です」
とジャンヌは言った。
「さん付けは、少し、なんというか……慣れていないので」
「じゃあ、ジャンヌ」
「はい、夜久」
二人は目が合った。どちらからともなく、また少し笑った。峰打ちと謝罪から始まった奇妙な出会いが、ここでようやく、人と人の話になった気がした。
「リナは無事ですか」
とジャンヌは言った。
「村を出るときは、無事でした」
と夜久は言った。
「今がどうかは……分かりません」
ジャンヌの表情が、一度だけ揺れた。それから引き締まった。
「村の人たちも、攫われているんですか」
「断言はできません」
と夜久は言った。
「でも、遺体も怪我人も一人もいない。それだけの惨状の中で、全員が逃げ延びたとは考えにくい。賊の目的は最初から人だった。砦に捕虜がいた。同じことをここでもやった可能性が高い」
ジャンヌは夜久の言葉を聞きながら、村の中を見回した。
燃えている建物、散乱した荷物、石畳に広がる血。でも確かに、人がいない。生きている者も、死んでいる者も。
「砦?」
とジャンヌは言った。
「この近くにあった賊の砦に、捕虜が閉じ込められていました。昨日、解放しましたが……」
夜久は少し間を置いた。
「その報復として、この村が狙われたと考えています」
ジャンヌの目が、夜久を見た。
「それが、引き金になった、ということですか」
「そうです」
ジャンヌは少しの間、黙っていた。
「砦の捕虜の中に……リナの、私の母も、いましたか」
「はい」
と夜久は言った。
「他の捕虜の方々と一緒に、村に送り届けました」
ジャンヌの目が、揺れた。今度は表情ではなかった。何か奥の方にあるものが、一瞬だけ表に出て、すぐに引っ込んだ。
「ありがとうございます」
声が、少し違った。聖女の声ではなかった。
「リナが七つで、私が十九。ずいぶん歳が離れた姉妹なんです。だから……母のことは、ずっと心配していて」
「……七つ上、ではなく」と夜久は言った。
「十二離れています。なので、一人で村に残している間も」
夜久は少し黙っていた。
「俺は十六です」
ジャンヌは夜久を見た。十六。この男が。先ほど、あれほどの剣を振るっていた男が。首筋に峰を当てた瞬間の鋭さも、影桜が炎を斬り落とした刹那の静けさも——それが、自分より三つ下の少年の剣だった。
「……そうですか」
とジャンヌは言った。他に言葉が出てこなかった。
少しの間があった。
「夜久が動かなければ、あの砦の人たちはどうなっていたか」
とジャンヌは言った。
「踏み込みがこの村を巻き込んだとしても……私は、感謝しています」
「俺が動いたことで、この村が燃えた」
と夜久は言った。低い声だった。
「そのことは変わらない」
「確かに変わりません」
とジャンヌは言った。
「でも、今夜ここに夜久がいたから、これ以上の犠牲が出なかった。救われた命は、必ずあります」
夜久は答えなかった。
ジャンヌも、それ以上押さなかった。ただ言葉を置いた。受け取るかどうかは、夜久次第だという置き方だった。




