第一話「世界の縫い目」⑤
説明は特に進まなかった。
ゼータは多くを語らなかった。語らないというより、それ以上の情報を持っていないか、あるいは言葉にする必要を感じていないかのどちらかだった。
夜久が問いを重ねるたびに、ゼータは短く答えるか、静かに黙るかした。
蒼依はしばらく二人のやり取りを聞いていたが、やがて「とりあえず学校遅れるよ」と言った。
「行かない」
とゼータが言った。
「は、なんで」
「今日、夜久は学校へ行かない」
「いや行くけど」
「行かない」
「行くって」
ゼータは一度だけ目を閉じた。それから、道場の中央あたりをぼんやりと見た。
ただ、見た。
それだけだった。なのに道場の空気が、変わった。
温度ではない。光でもない。もっと根本的な何かが。世界の手触りそのものが。まるでこの一点だけ、現実の縫い目がほつれているような――
空間が、溶けた。
溶けた向こうに、別の空があった。別の光があった。別の風が吹いていて、嗅いだことのない土の匂いがした。
「な」
と蒼依が言った。
「なに、これ」
「別の世界」
とゼータが言った。
「は」
「行く」
「ちょっと待って説明して」
「行けば分かる」
ゼータはすでに穴に向かって歩き始めていた。振り返りもせず、急ぎもせず、ただ淡々と。
夜久の足が動いた。考えるより先に。
神棚の下の影桜を、気づけば手にしていた。月村家に代々伝わる刀。今持っていくべきだという確信も根拠もなかったが、置いていく気にもなれなかった。
「ちょっと、夜久まで」
蒼依が夜久の袖を掴んだ。でも引き止めなかった。一緒に歩いた。
三人が穴をくぐった瞬間、道場の空気が大きく揺れた。
振り返る間もなく、世界が変わった。
朝の道場が、消えた。




