第十二話「侘桜」
草原を抜けると、煙の匂いがした。
走りながら、夜久は鼻の奥にその匂いを感じた。木が焦げる、燃えている匂いだった。空の低いところに煙が広がり、夕暮れの残光が赤みを増す。景色が変わっていく。草原の向こうに見えるはずの村の輪郭が、煙の中にぼやけていた。
足が、速くなった。
蒼依も同じだった。黒スパッツの足が砂利を蹴り、青いショートカットが風を切って揺れた。声は出さなかった。二人とも、声を出す気になれない。息だけが、規則的に乱れながら続いた。
木の柵が見えてきた。
門は、なかった。いや、あった跡はあった。扉の片方が外れて地面に倒れ、柱が斜めに傾いでいた。火の粉が空気の中で舞い散る。夜久は速度を落とさず、その中を走り抜けた。
村の中に入った瞬間、足が止まった。
止まらざるを得なかった。
石畳の上に物が散乱していた。布、割れた陶器、誰かの靴、ひっくり返った荷物。建物が燃えていた。数棟ではない。あちこちが焦げ、炎がまだ消えていなかった。
あの宿酒場「ラズベリ」の丸太の壁も赤く照らされながら燃え、看板が傾いて、杯の絵が煤で見えなくなっていた。
血があった。
石畳の上に。壁際に。点々と、広がって。
夜久は立ったまま、村の中を見回した。
ここに来た一日前が、嘘のようだった。
マルタさんが腕まくりをして包みを押しつけてきた宿酒場が、燃えていた。自警団の男が頭を下げた門が、崩れていた。リナが石畳を駆けて母親に飛びついた広場が、蹂躙され見る影もない。昨夜の宴の笑い声が、どこにもなかった。煙だけが、空に向かって上がり続けていた。
蒼依が夜久の隣で、息を飲んだ。
夜久は答えなかった。言葉が出てこなかった。それよりも先に、意識が村全体へと広がっていた。気配を探していた。人の息吹を、探していた。
なかった。
どこにも、なかった。炎の揺れる気配はある。煙が漂う気配はある。でも、人が生きている気配が、どこにも感じられなかった。村が、空だった。




