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第十話「引き金」④

 蒼依だった。


 振り返ると、蒼依は夜久の袖を握ったまま、まっすぐに夜久の顔を見ていた。

 昨夜の泣き顔でも、今朝の安堵の顔でもなかった。引き止めているのとも違った。何かを伝えようとして、その言葉を探している顔だった。

 しかし迷っているわけでもなかった。もう、決まっていた。


「私も行く」


 夜久は少し間を置いた。


「待っていてくれた方が」と言いかけた。


「リナちゃんがいる」


と蒼依は言った。夜久の言葉を静かに遮った。怒鳴るわけでもなく、ただ確かな声で。


「あの子は昨夜、ずっとお母さんの手を離さなかった。やっと帰ってきたお母さんの手を。それが今、また——」


 蒼依は一度、息を吸った。切れ長の目が、まっすぐ夜久を見ていた。


「私は、置いていかれたくない」


 夜久は蒼依の顔を見た。リナのために、この足でそこへ行きたいと言っていた。


 一緒に笑い声を聞いた夜があったから。手を振り返した午後があったから。知らない世界で一日を過ごした仲間が、今危ないから。

 それは夜久に止められる理由ではなかった。


「……蒼依の足で、走れるか」


「走れる」


と蒼依は即答した。


「自主練、毎朝してる」

「知ってる」

「ならいいじゃん」


 夜久はゼータを見た。ゼータは二人のやり取りを、少し離れた場所で静かに見ていた。夜久の視線に気づいて、短く言った。


「行く」

「聞いていないぞ」


と夜久は言った。


「行く」


とゼータはもう一度言った。


 表情は動いていなかった。でも、その一言には何の揺らぎもなかった。感情がないのではない。言葉が少ない分だけ、その重さが別のところに出ていた。


「ゼータは俺と来い」


とディルクが割り込むように言った。


 三人がディルクを見た。

 ディルクは腕を組んだまま、夜久たちではなく街道の先を見ていた。何年も往き来してきたその道を。


「あの村の連中には世話になっている。俺にも行く理由がある」


ディルクは言った。


「混成隊の馬車がある。荷車も出せる。足は確保できる。お前たちが先に着いて持ちこたえていれば、それで十分だ」


 ゼータがディルクを見た。それから夜久を見た。

 夜久は小さく頷いた。ゼータの灰色の目が、一度だけ蒼依の方へ向いた。


 「……ん」


とゼータは言った。


 ディルクが荷車の脇から布の包みを取り出して、夜久に押しつけた。女主人が持たせてくれた今朝の包みの余りだった。


「食い物だ。走りながら食えるかは知らんが、持っていけ」


 夜久は受け取った。


 ゼータが夜久の隣に並んだ。灰色の目が、静かに夜久を見ていた。


「気をつけて」


 短かった。それだけだった。でも夜久は少し足を止めて、ゼータを見た。


「ああ」


と言った。


「俺たちが追いつくまで、無茶はするな」


とディルクは言った。


 ディルクは夜久の顔を一度見て、それから空を見上げた。日が西へ傾き始めていた。残る光が、街道の先まで斜めに伸びていた。


「行け」


とディルクは言った。


 二人が動いた。

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