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第零話「種を撒く人」

世界が、見えた。


 いつもそうだ。望んでいなくても、見える。見たくなくても、見える。

 瞼を閉じても、息を止めても、意識を手放そうとしても——世界は容赦なく流れ込んでくる。


 無数の時間軸が、無数の因果が、洪水のように。


 これが観測だ、と少女は思った。


 もう何度そう思ったか、数えることも諦めた。


 部屋には窓がなかった。いや、部屋と呼べるかどうかも怪しい。

 壁と床と天井があって、管が繋がっていて、椅子があった。椅子というより台座だった。そこに座らされて、ただ観測させられる。

 大人たちが欲しいデータを、欲しいだけ、欲しい時間だけ。


 外がどうなっているか、少女は知っていた。


 観測できてしまうから。


 空が黄色い。常にどこかで煙が上がっている。

 街は整然としていて、整然としている分だけ不気味だった。

 人々は歩いて、食べて、眠っている。でもその目が、笑っていない。笑う必要がなくなった世界だった。


 世界統一政府が成って、旗がひとつになって、歴史が書き換えられた世界。


 これが正解だと、OSは判定した。


 これが答えだと、大人たちは言った。


 少女にはどうしても、そう思えなかった。


 だから今日も、こうして座っている。抗う力はとっくにない。声を上げても届かない。肉体はとうに、自分のものではなくなっていた。


 ただ、見ている。


 義務として、部品として、見ている。


---


 そのとき、見えた。


 無数の時間軸の、そのひとつの、細い糸のような流れの中に。


 少年がいた。


 黒い和装を着た、表情の薄い少年だった。庭で木刀を振っていた。夜明け前の空気の中で、一人で、黙って。汗が首筋を伝って、息が白く溶けていた。


 何でもない光景だった。


 どこにでもある、朝の、修行の、光景だった。


 なのに少女の観測が、その少年の上で——止まった。


 因果の束が、そこだけ、違った。他の全ての時間軸が太い川のように決まった方向へ流れていく中で、その少年を通る一本の糸だけが、かすかに、別の方向を向いていた。決まっていない方向を。決められていない未来を。


 可能性だ、と少女は思った。


 本物の、可能性だ。


 目が熱くなった。泣いているのかもしれなかった。泣く力がまだ残っていたことに、自分で少し驚いた。


 少年の情報が、流れ込んできた。


 十六歳。この時点ではまだ、何者でもない。世界の構造も、自分に何が起ころうとしているかも、何も知らない。


 だからこそ、可能性がある。


 決まっていないから、可能性がある。


---


 少女は決めた。


 考える時間は必要なかった。観測した瞬間に、もう決まっていた。


 肉体を捨てる。


 この場所に縛られている理由が、肉体だから。管が繋がっているのも、台座に座らされているのも、全部、肉体があるからだ。ならば捨てればいい。情報だけになればいい。意識だけになればいい。


 痛いだろうか、と一瞬思った。


 でも今さらだった。


 少女はゆっくりと、自分の輪郭を手放し始めた。指先から。次に腕。肩。足。体幹。少しずつ、丁寧に。長年住んだ家を出ていくみたいに。


 管が、アラームを鳴らした。どこかで誰かが走る音がした。間に合わない、と少女は思った。


 もう間に合わない。


 意識が細くなっていく中で、最後に少年の姿を見た。まだ木刀を振っていた。何も知らないまま、夜明け前の庭で、黙って振っていた。


 ちゃんと届けなければ、と思った。


 この可能性を、無駄にしてはいけない、と思った。


 あなたが何者になるかは、まだ決まっていない。


 だからお願い——


 少女の意識が、散った。


 静かに、桜の花びらが散るように。


 跡形もなく。


――序章 了――

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