黒き大地と、光を呼ぶ者
翌朝、戦場には昨夜よりもさらに重い風が吹いていた。
夜のあいだに冷え切った空気は、灰と土の匂いを孕みながら低くうねり、まるで大地そのものが呻いているかのようだった。遠くで崩れた岩の欠片が転がり、乾いた音を立てる。その一つひとつが、ここで失われた命の残響のように思えた。
風の英雄セフィルが眠る場所には、小さな木が静かに芽吹いていた。
幹はまだ細く、触れれば折れてしまいそうなほど頼りない。それでも、淡く輝く葉は夜明けの光を受けて揺れ、確かに“生きている”ことを示していた。
風が吹くたび、葉はささやくように音を立てる。その音は、かつてセフィルが操った疾風の名残のようでもあり、彼の存在がまだこの場に留まっている証のようでもあった。
「……もうすぐ、一日か」
雷のドレイクが低く呟く。声はかすれていて、いつもの荒々しさは影を潜めていた。彼は腕を組み、視線を地面から逸らさない。セフィルの神木を直視することが、まだできなかった。
リーナはその木の前に跪き、静かに手を合わせていた。
祈りの言葉は口にしない。ただ、胸の奥で何度も名を呼ぶ。
「あなたの風は、まだ吹いてるわ。感じるの」
それは自分自身に言い聞かせるような声だった。
氷のアイリスがそっと彼女の肩に手を置く。冷たい指先が、震える体温を静かに抑え込む。
「立とう、リーナ。セフィルは……きっと、前に進めって言う」
その言葉には、慰めよりも覚悟が滲んでいた。
彼らが顔を上げると、視線の先には黒く焦げた大地が広がっていた。
そこは“地脈の裂け目”。呪いがもっとも濃く滞留するとされる場所。
地面は不自然に割れ、草木は根元から枯れ果て、生命の痕跡はほとんど残っていない。空気は濁り、喉にまとわりつくような重さがあった。遠くでは、獣とも人ともつかぬ叫びが反響し、風に乗って届いてくる。
重力のロガンが腕を組み、一歩踏み出す。
「ここが、地脈の中心か……確かに、嫌な圧を感じる」
足元の小石が、重力に引かれるようにわずかに沈み込む。
水のルナは周囲を見渡し、唇を噛みしめた。
「この地はもう……生きていない。水が、拒まれてる」
そのとき、地面がわずかに震えた。
最初は錯覚かと思うほど微かな揺れ。しかし次の瞬間、確かな悪意を伴って広がる。
「っ、来る!」
炎のガルドが前に出て剣を抜く。刃が擦れる音が、張り詰めた空気を裂いた。
地中から、黒い手のようなものが伸びてくる。
それは骨でも肉でもない、形を定めない影の塊だった。幾重にも重なり、うねり、英雄たちを囲むように広がっていく。
形を持たない“怨念”。
地脈から溢れ出た呪詛そのものが、意思を持って蠢いていた。
雷鳴が走る。
ドレイクが一閃を放ち、雷光が影を貫く。
「退けぇぇぇぇ!!」
爆音とともに黒い影は吹き飛ぶが、地面に溶けるように消え、すぐさま別の形で再生した。
「意味がない……斬っても、消えない!」
アイリスが氷の障壁を張る。透明な壁が冷気を放つが、影はそれを侵食するように溶かし、這い寄ってくる。冷気すら、呪いに喰われていく。
その中で――土の英雄バルグが、静かに地に手をついた。
膝を折り、指を土に沈める。その表情は、すでに決意に固まっている。
「ならば、俺が抑える!」
地が揺れ、無数の岩壁が立ち上がる。裂け目を覆い、影を閉じ込めるように大地が動く。彼の力は、土そのものと一体化していた。
「バルグ! 危険だ、離れろ!」
ドレイクが叫ぶ。
だがバルグは振り返らず、ただ笑った。
「いいや、ここで止める。お前たちは先へ行け! ここは……俺の領域だ!」
次の瞬間、黒い手が彼の腕に絡みついた。
「ぐっ……離せぇっ!!」
筋肉が軋み、岩壁に亀裂が走る。影は執拗に絡みつき、命を引きずり込もうとする。
リーナが走り出す。
「ダメ、バルグ!」
「来るなッ!」
背中越しの叫び。その声には、恐怖よりも焦りがあった。
彼は右手を地に叩きつける。
轟音。
大地が裂け、黒い霧とともに光が噴き上がる。それは破壊ではなく、封印だった。地脈そのものを焼き、縫い留めるような、土の最奥の力。
「おい、まさか……!」
ドレイクの声が震える。
光は広がり、やがてすべてを飲み込み――静寂だけが残った。
そこに立っていたバルグの姿は、もうなかった。
ただ、彼のいた場所に、小さな芽がひとつ。
土色の幹、濃い緑の葉。
その根は、大地の奥深くまで伸び、まるで地脈を縫い留める楔のように存在していた。
「また……」
リーナの声が震える。
「また、仲間が……」
ルナが膝をつき、涙をこぼす。
「なんで……どうして、戦わなきゃいけないの……?」
アイリスは何も言わず、彼女を抱き寄せる。その腕は冷たいが、拒絶ではなかった。
「……この呪いは、“命”を糧にしているのかもしれない」
ロガンが低く唸る。
「つまり、俺たちが抗えば抗うほど、この地は喰らう。そういう仕組みだ」
遠くで雷が鳴る。
風のセフィルの神木が、静かに揺れる。
それはまるで、彼らに「諦めるな」と囁いているようだった。
リーナは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「バルグの力が……この地を少しでも清めてくれたなら、まだ……希望はある」
その背に、仲間たちも続く。誰も言葉を発しない。ただ、同じ方向を見る。
「行こう。セフィルも、バルグも――私たちに未来を託したんだ」
空は曇り、雨が降り出す。
雨粒は大地を濡らし、芽吹いた小さな木を優しく包み込む。
英雄たちはまだ知らなかった。
その木こそが、後に“二本目の神木”と呼ばれることを――
そして、それがまだ始まりにすぎないことを。




