第099話 蒼露の谷底
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。今日も静かに整えながら進んでいこう。
蒼火の野営地を離れて半日、熱は急に途切れ、風が冷たく変わった。道は緩やかに落ち込み、谷底へ近づくにつれ、空気が湿りはじめる。“蒼露の谷底”。草も石も深い露に濡れ、足跡はすぐに消える。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……露が道を呑む」カイが指を濡らす。
「火も紗も過ぎた。今日は露が舌」ライラが露を掌に受けた。冷たく、指先がしびれる。
谷底の中心に、青衣をまとう老人が座っていた。腰紐に藍はない。掌に透明な露玉を乗せ、静かに揺らしている。
「ここでは足音が消える。露が記憶を洗う。……通るなら、この露玉を地へ返せ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが露玉を受け取り、ライラがそっと地面に置く。露が音もなく溶け、地が一度だけ息をした。
「谷へ二、丘へ一。返すのは半手で」老人が囁く。
「覚えた」ライラは露の冷たさを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、黒火片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“露守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、湿り気を帯びた香りが広がる。カイがひと口すすり、胸の奥が静まる。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は気配のような笑みを残した。「歩幅を稼ぐ味だ」
谷の壁には古い藍の点がわずかに残っていた。粒は細いが、露で濡れて滲んでいる。代わりに、静かな滴りと湿った土の呼吸が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は露」ライラが壁を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老人が透明な露片をミーナに渡した。「器に沈めれば香が透く」
「受け取ります。火片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、谷底の影で短い休止。火は使わず、“露守りの薄”を裂き、露粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心が澄む」ミーナが配る。
バルドは穏やかに頷き、露に濡れた頬を拭った。
午後、谷底を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「露は眠った。耳は届かない」ライラが低く囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に露片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥を優しく撫でていく。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼露の谷底、露返し、露片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、露がひと粒だけ落ちた。
星が出る。露は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。しめり気のある谷や、露に濡れた景色の記憶があれば教えてください。また明日。




