第097話 蒼紗の丘陵
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。今日も静かに整えながら進んでいこう。
蒼牙の裂け谷を抜けると、風がふっと軽くなった。空気が柔らかく揺れ、丘の一面には薄い布のような草が広がっている。“蒼紗の丘陵”。草は風に合わせて波のように重なり、遠くまで青い布を広げたように見えた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が布みたいだ」カイが丘を見渡す。
「牙も鈴も過ぎた。今日は紗が舌」ライラが草に触れた。薄くて軽いが、指を押し返すような強さがあった。
丘の頂に、淡い青の衣をまとう女が立っていた。腰紐に藍はない。手には細長い紗布が揺れ、その端が風の方向を指している。
「ここは風が層になって走る。逆らえば紗が裂ける。……通るなら、布端をひと撫でして向きを合わせよ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが布端を受け取ると、ライラが指先でそっと撫でる。風向きがわずかに変わり、草の布が静かに整った。
「谷へ二、丘へ一。撫では半手で」女が囁く。
「覚えた」ライラは風紗の感触を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、牙片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“紗守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、草布の香りが溶ける。カイがひと口すすり、肩の力がほどけた。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は小さく笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」といつも通り短く言った。
丘陵の端に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが紗草が揺れて隠れ、見えない。代わりに、風の層と草布の波が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は紗」ライラが草を掬うように撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
女が薄い紗片をミーナに渡した。「器に添えれば香が広がる」
「受け取ります。牙片と重ねる」ミーナが布に包む。
正午前、丘の陰で短い休止。火は使わず、“紗守りの薄”を裂き、紗粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が軽くなる」ミーナが配る。
バルドは頬に寝かせ、静かなうなずきを返した。
午後、丘陵の端が見えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「紗は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅を揃える」ヴォルクは二列の隊を整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、丘を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。器に紗片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ず、酸が胸を静かに撫でていく。
御者台で商人が短く書きつける。「本日の勘定:蒼紗の丘陵、紗撫で、紗片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、草布の波が静かに揺れ返した。
星が出る。紗は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。風に揺れる布や薄い草の記憶があれば、そっと教えてください。また明日。




