第096話 蒼牙の裂け谷
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。無理なく穏やかに、今日も進もう。
蒼鈴の原を抜けた先で、地が突然裂けたように沈み込んでいた。“蒼牙の裂け谷”。両側の岩は鋭く尖り、まるで巨大な牙が噛み合っているかのようだ。風は細く、谷底へ吸い込まれていく。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が落ちていく」カイが谷底を覗く。
「鈴も羽も過ぎた。今日は谷が舌」ライラが岩の間に掌を差し入れる。冷たい風が骨を撫でた。
裂け谷の入口に、黒い外套をまとった案内者がいた。腰紐に藍はない。掌には、研ぎ澄まされた細い石片が一つ。
「ここは声が落ちる場所。言葉は深く沈む。……通るなら、この石を岩に立てていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石片を受け取り、ライラが谷の壁にそっと差し込む。風が一瞬だけ止まり、鋭い音が消えた。
「谷へ二、丘へ一。立てるのは半手だけ」案内者が囁く。
「覚えた」ライラは岩の震えを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、鈴片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“牙守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、岩の冷気と混じる。カイがひと口すすり、肩の緊張がほどける。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は端で軽く笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
谷の側面に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細く、裂け目の影に沈んでいる。代わりに、風の落ちる音と岩の間の呼吸が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は牙」ライラが岩肌に触れた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
案内者が鋭い石牙の欠片をミーナに渡した。「器に添えれば香が締まる」
「受け取ります。銀鈴片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、裂け谷の影で短い休止。火は使わず、“牙守りの薄”を裂き、牙粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が冴える」ミーナが配る。
バルドは頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、谷を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「谷は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは二列のまま進み、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、裂け谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。必要のない夜だ。器に石牙片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ず、酸が胸を静かに撫でてゆく。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼牙の裂け谷、石立て、牙片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、谷風がひと筋、後ろへ逃げた。
星が出る。谷は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。岩の冷気や細い谷で感じた記憶があれば、そっと教えてください。また明日。




