第095話 蒼鈴の原
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。今日も無理なく淡々と、進んでいこう。
蒼羽の峠を下りると、草原が広がった。だがそこに広がる草は、細い茎の先に小さな珠のような“鈴”をつけている。“蒼鈴の原”。風が吹けば、草は揺れず、鈴だけが触れあってかすかな音を立てる。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……草じゃなく鈴が鳴る」カイが耳を澄ます。
「羽も壁も過ぎた。今日は音が舌」ライラが指先で草をそっと弾いた。鈴が一つだけ応えるように鳴る。
原の中央に、青銀の外套を纏った少女がいた。腰紐に藍はない。掌に草鈴を数粒のせ、風を読み取るように目を細めている。
「ここでは風が言葉を連れていく。大きな音は鈴を乱す。……通るなら、ひと粒だけ鳴らしていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが少女から草鈴を受け取り、ライラがそっと指で触れる。澄んだ音がひとつ、空へ昇り、すぐに消えた。
「谷へ二、丘へ一。音は半手だけ」少女が囁く。
「覚えた」ライラは鈴の余韻を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、羽片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“鈴守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、草と音の香りが淡く漂う。カイがひと口すすり、背の力が抜ける。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は片目だけ笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
原の端に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが鈴草の影で見えない。代わりに、音の層と風の節が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は鈴」ライラが草鈴を掌に転がす。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
少女が銀鈴の欠片をミーナに渡した。「器に添えれば音が澄む」
「受け取ります。白羽と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、鈴草の影で短い休止。火は使わず、“鈴守りの薄”を裂き、鈴粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸が軽くなる」ミーナが配る。
バルドは頬に寝かせ、ゆっくりうなずいた。
午後、草原を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「鈴は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは二列に隊を整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、原を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に銀鈴片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が胸をなで、息が静かに整う。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼鈴の原、鈴鳴らし、銀鈴片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、原の鈴がひとつ揺れた。
星が出る。音は眠り、道は前へと延びている。
読了感謝。草の音やかすかな鈴の記憶があれば、そっと教えてください。また明日。




