第094話 蒼羽の峠道
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。今日も無理なく淡々と、筆を進めていくよ。
蒼壁の街道を抜けると、空が急に開けた。風が高く、軽く、冷たい。“蒼羽の峠道”。山肌に白い羽のような草がまばらに生え、風が吹くたび空へ舞い上がる。音は少なく、風の線が細く伸びていた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風の層が薄い」カイが鼻を鳴らす。
「石も水も過ぎた。今日は風が舌」ライラが掌を空へ向ける。指先の周囲だけ風が渦を巻いた。
峠の曲がり角に、白い外套を羽織った青年がひとり座っていた。腰紐に藍はない。背には羽のような草束、掌には風車の小さな羽根。
「ここでは声が落ちる。風が拾っていく。……通るなら、羽を一度だけ返してやれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが羽根を受け取り、ライラがそっとひっくり返す。風がひと呼吸だけ逆流し、峠が静まった。
「谷へ二、丘へ一。返しは半手だけ」青年が囁く。
「覚えた」ライラは風の質を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦の粉をひとつまみ、石粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“羽守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、風草の香りが混じる。カイがひと口すすり、肩を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は笑みを隅に置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
峠の端に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが羽草が揺れ、見えない。代わりに、風の段差と草の鳴きを“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は風」ライラが指で風の層をなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
青年が白羽の欠片をミーナに渡す。「器に添えれば香りが軽くなる」
「受け取ります。石粉と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峠の影で短い休止。火は使わず、“羽守りの薄”を裂き、羽粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。風が通る」ミーナが配る。
バルドは頬に寝かせ、ゆっくりうなずいた。
午後、峠を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「風は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは二列のまま、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峠を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に白羽片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が胸をなで、息が静まる。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼羽の峠道、羽返し、白羽。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、風がひとすじ返した。
星が出る。空は澄み、道は前へ延びている。
読了感謝。風の通り道で思い出す景色があれば、そっと教えてください。また明日。




