第093話 蒼壁の街道
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼影の湖を後にして一日、道は緩やかに上りはじめた。左右を囲むように巨大な石壁が続き、空は細く切り取られている。“蒼壁の街道”。風はほとんどなく、声を出せば跳ね返って返事のように響く。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……空が狭い」カイが頭上を見上げた。
「湖も樹も過ぎた。今日は石が舌」ライラが壁に手を当てた。冷たいが、奥に脈がある。
街道の真ん中に、古びた鎧を着た兵士が立っていた。腰紐に藍はない。背には旗の残骸、掌には白い粉。
「この壁は音を食う。息を乱せば、歩みを呑む。……通るなら、指で壁を叩いて名を残せ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが拳を握り、ライラが壁を軽く三度叩いた。音が鳴らず、石が呼吸するように揺れた。
「谷へ二、丘へ一。叩きは半手軽く」兵士が囁く。
「覚えた」ライラは石の鼓動を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、透明石粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“壁守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、石の粉の香りが立つ。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
街道の石に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが粉で曇り、見えない。代わりに、振動と低い響きが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は石」ライラが壁を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
兵士が白い粉袋をミーナに渡した。「器に少し混ぜれば香が柔らぐ」
「受け取ります。透明石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、街道の陰で短い休止。火は使わず、“壁守りの薄”を裂き、石粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。声が軽くなる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、街道の終端が見えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「壁は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、街道を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に石粉を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼壁の街道、叩き、石粉。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、壁の音が遠くで息をついた。
星が出る。音は静まり、道は前へ延びている。
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“石畳の音”や“静かな道”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




