第092話 蒼影の湖
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼樹の森を抜けると、風が静まり、目の前に鏡のような水面が広がった。“蒼影の湖”。空も森もすべてが映り、現実と映り込みの境が曖昧だ。水は動かず、音もなく、ただ光が揺れている。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……息をすれば波立つ」カイが囁いた。
「樹も幕も過ぎた。今日は湖が舌」ライラが膝をつき、水面に指を触れた。冷たく、しかし底から脈がある。
湖の中央に、浅瀬へ続く小道が伸びていた。その先に立つのは、薄青の衣を纏った女。腰紐に藍はない。掌に小さな石を浮かべている。
「この湖は空を食う。影を落とせば戻さぬ。……通るなら、石を一度だけ沈めよ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を受け取り、ライラが両手で水面に置いた。波紋が三度広がり、音がひとつ生まれて消えた。
「谷へ二、丘へ一。石は半手沈める」女が囁く。
「覚えた」ライラは水の鼓動を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、樹皮粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“湖守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、水の香が淡く立つ。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
湖の縁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが反射に紛れて見えない。代わりに、水音と空の光が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は水」ライラが水面を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
女が透明な小石をミーナに渡した。「器の底に沈めれば音が澄む」
「受け取ります。樹皮と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、湖畔の影で短い休止。火は使わず、“湖守りの薄”を裂き、水粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心が静まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、湖を背に進むころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「湖は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、湖を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に透明石を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼影の湖、石沈め、透明石。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、水面が一度だけ呼吸した。
星が出る。湖は眠り、道は前へ延びている。
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“水鏡”や“静かな湖”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




