第091話 蒼樹の森
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼幕の境界を越えたとき、風に緑の匂いが混じった。音が戻り、土が柔らかくなる。“蒼樹の森”。幹は青みを帯び、葉の裏が光を返す。遠くで鳥の声がして、空はまだ薄曇り。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵あり。鏡なし。……木の息が深い」カイが鼻を鳴らした。
「幕も灰も過ぎた。今日は森が舌」ライラが根を跨ぎ、掌で樹皮を撫でた。樹の鼓動が微かに伝わってくる。
木々の間に、緑の外套を羽織った狩人がいた。腰紐に藍はない。背に弓、掌に草の束。
「陽が登ると樹が歌う。風が止まると黙る。……通るなら、葉を三枚重ねて置いていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが葉を受け取り、ライラが根元に三枚を並べた。音が変わり、森が静かになる。
「谷へ二、丘へ一。葉は半手重ねる」狩人が囁く。
「覚えた」ライラは葉の温もりを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、布片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“樹守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、草の香が混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
森の奥に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが苔に覆われて見えない。代わりに、葉擦れの音と根の振動が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は樹」ライラが幹に掌を当てた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
狩人が緑の樹皮片をミーナに渡した。「器に敷けば香が立つ」
「受け取ります。布片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、森の陰で短い休止。火は使わず、“樹守りの薄”を裂き、樹粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が甘くなる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、森を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「樹は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、森を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に樹皮片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼樹の森、葉重ね、樹皮。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、森の風がやわらかく返した。
星が出る。森は眠り、道は前へ延びている。
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“森の匂い”や“木漏れ日”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




