第090話 蒼幕の境界
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
灰風の峠を越えると、世界が一枚の布で覆われたように静まり返った。空も地も区別がなく、風の色だけが淡く揺れている。“蒼幕の境界”。音は遠く、足跡すら残らない。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……音が吸われてる」カイが声を潜めた。
「灰も潮も過ぎた。今日は幕が舌」ライラが指で空をなぞる。布のように風が指先にまとわりつく。
境界の中央に、青い外套の人影が立っていた。腰紐に藍はない。顔は布で覆われ、両の掌で見えない糸を引いている。
「ここは境。戻る者も進む者も、名を残せぬ。……通るなら、息で布を揺らしていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが風を押さえ、ライラが小さく息を吐く。布のような空気がわずかに波打ち、音が戻った。
「谷へ二、丘へ一。幕は半手揺らす」人影が囁く。
「覚えた」ライラは空の質感を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、灰粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“幕守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、布のような香が立つ。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
境の足元に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが光に吸われて見えない。代わりに、風の層と沈黙が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は幕」ライラが布のような空気を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
人影が淡い布片をミーナに渡した。「器に重ねれば香が落ち着く」
「受け取ります。灰片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、境の影で短い休止。火は使わず、“幕守りの薄”を裂き、布粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。呼吸が穏やかになる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、布のような空が緩むころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「幕は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、境を抜けて帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に布片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼幕の境界、息送り、布片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、幕のような空が静かに波打った。
星が出る。風は穏やかに、道は前へ延びている。
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“境界”や“静かな空”で思い出す光景があれば、一つ教えてください。また明日。




