第089話 灰風の峠
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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黒潮の渡し場を離れて三日、山脈の尾が再び姿を現した。風は乾き、遠くの空が白く霞む。“灰風の峠”。岩は砕け、草は色を失っている。音が薄く、息を吸うたび粉のような灰が肺に触れた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵あり。鏡なし。……風が鳴いてる」カイが目を細める。
「潮も月も過ぎた。今日は灰が舌」ライラが布で口を覆い、掌を風に向けた。
峠の中腹に、灰を被った修道者がいた。腰紐に藍はない。両手で壺を抱え、中には細かい灰が静かに渦を巻いている。
「ここでは息を吐くな。風が名を持っていく。……通るなら、掌で風を撫でてやれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが壺の縁を押さえ、ライラが掌でそっと風を撫でた。灰が舞い上がらず、空気が沈む。
「谷へ二、丘へ一。灰は半手撫でる」修道者が囁く。
「覚えた」ライラは風の重さを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、貝片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“灰守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、風の匂いと混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
峠の岩壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが灰で覆われて見えない。代わりに、風の旋律と沈黙が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は風」ライラが掌で灰を払う。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
修道者が小さな灰片をミーナに渡した。「器の縁に置けば香が落ち着く」
「受け取ります。貝片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峠の陰で短い休止。火は使わず、“灰守りの薄”を裂き、灰粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。呼吸が澄む」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、峠の頂に立つころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「風は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峠を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に灰片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:灰風の峠、風撫で、灰片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、灰が小さく舞い上がり、すぐに消えた。
星が出る。風は静まり、道は前へ延びている。
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“山の風”や“灰色の空”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




