第088話 黒潮の渡し場
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
蒼月の宿営地を発ったのは夜明け前。東の空がまだ白む前に、湿った風が潮の匂いを運んできた。“黒潮の渡し場”。砂でも土でもなく、滑らかな黒石が敷き詰められた岸辺。海は静かだが、底から音が響いている。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……潮が息をしてる」カイが膝を折り、黒石のひとつを拾う。
「月も鐘も過ぎた。今日は海が舌」ライラが指先で潮の線をなぞった。波はなく、ただ水面が脈打つように揺れていた。
渡し場の端に、濃い藍の外套を着た船守が立っていた。腰紐に藍はない。足元に小舟、掌には水滴を乗せている。
「朝になる前に渡る者は、声を封じよ。海は目で見ぬ。……通るなら、滴をひと粒、舌に置け」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが雫を受け取り、ライラが舌先で触れた。塩気が広がり、胸の奥にひとつの波が打った。
「谷へ二、丘へ一。滴は半手触れる」船守が囁く。
「覚えた」ライラは潮の味を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、月片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“潮守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、塩と鉄の匂いが溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
渡し場の石に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが潮に濡れて見えない。代わりに、波の鼓動と光の揺らぎが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は潮」ライラが水面に手を伸ばす。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
船守が黒い貝片をミーナに渡した。「器の底に置けば味が深まる」
「受け取ります。月片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、潮が緩むころ短い休止。火は使わず、“潮守りの薄”を裂き、潮粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。体が静まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、舟が黒潮の上を滑るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「潮は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは櫂を握り、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、対岸に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に貝片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒潮の渡し場、滴味わい、貝片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、波がひとつ返した。
星が出る。潮は静まり、道は前へ延びている。
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“海の匂い”や“静かな潮騒”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




