第087話 蒼月の宿営地
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
蒼鐘の谷を越えると、夜が早かった。空はまだ薄明るいのに、月がもう頭上で光を放っていた。“蒼月の宿営地”。地面は砂と草が交じり、風が静かに吹き抜ける。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……光が冷たい」カイが空を仰ぐ。
「鐘も灯も過ぎた。今日は月が舌」ライラが地に影を落としながら歩いた。影の輪郭がはっきりしている。
丘の端に、白い外套を羽織った旅人がいた。腰紐に藍はない。手のひらに金属の欠片を載せ、月光にかざしている。
「夜を越える者は声を潜めよ。月は耳を持つ。……通るなら、ひと息だけ、影を動かしていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが足元の砂を払い、ライラが一歩だけ踏み出す。影がかすかに揺れ、光がひと筋、細く折れた。
「谷へ二、丘へ一。影は半手揺らす」旅人が囁く。
「覚えた」ライラは影の温度を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、鐘粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“月守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、夜の香が柔らかく混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
丘の岩に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが光の反射に紛れて見えない。代わりに、月光と風の拍が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は月」ライラが影を踏んだ。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
旅人が銀色の月片をミーナに渡した。「器に沈めれば香が満ちる」
「受け取ります。鐘片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午ならぬ深夜前、丘の陰で短い休止。火は使わず、“月守りの薄”を裂き、銀粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が鎮まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
夜半、風がいっそう静まったころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「月は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
深夜、帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に月片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼月の宿営地、影揺らし、月片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、月がひときわ強く照り返した。
星が出る。光は静まり、道は前へ延びている。
読了感謝。ブクマ・評価が次の筆の燃料になります。
“月の夜”や“静かな光”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




