第086話 蒼鐘の谷
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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白灯の広場を抜けると、谷が再び口を開いた。風が深く通り抜け、どこかで金属の音が響いている。“蒼鐘の谷”。崖の両脇に吊るされた鐘が、風の息で揺れていた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……音が重なる」カイが耳を澄ます。
「灯も紋も過ぎた。今日は鐘が舌」ライラが細い糸のような音を追い、掌を風に伸ばした。
谷の中央に、青銅の鎧を着た僧が立っていた。腰紐に藍はない。掌に一つだけ小さな鐘を持っている。
「風が鳴らすとき、人の声は沈む。……通るなら、鐘を一度だけ鳴らしていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが鐘を受け取り、ライラが静かに打つ。ひとつの音が谷を渡り、遠くで同じ音が返った。
「谷へ二、丘へ一。音は半手で打つ」僧が囁く。
「覚えた」ライラは音の残響を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、火粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“鐘守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、金属の匂いが混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
谷の岩壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、錆に埋もれて見えない。代わりに、音の余韻と風の重さが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は音」ライラが鐘を指で撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
僧が銅色の鐘片をミーナに渡した。「器の底に置けば響きが長持ちする」
「受け取ります。火粉と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、谷の影で短い休止。火は使わず、“鐘守りの薄”を裂き、鐘粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸が澄む」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、谷を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「鐘は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に鐘片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼鐘の谷、音打ち、鐘片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、鐘の音が遠くで一度だけ鳴った。
星が出る。音は沈み、道は前へ延びている。
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“音の余韻”や“風に響く鐘”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




