第084話 蒼紋の町
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
黒凪の平原を越えた先に、淡い音が戻ってきた。風がゆっくりと流れ、人の声が遠くから響く。“蒼紋の町”。壁も屋根も青い線で刻まれ、陽を受けるたびに光が流れるように動いた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵あり。鏡あり。……音が戻ってきた」カイが微笑む。
「凪も雫も過ぎた。今日は人の声が舌」ライラが通りを歩きながら、地に描かれた紋様を見つめた。
門の傍に、青い衣を纏った女が立っていた。腰紐に藍はない。掌には細い筆と染料が握られている。
「夜になると線が迷う。朝に塗り直せば戻る。……通るなら、ひと筆だけ描いていって」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが筆を受け取り、ライラが石畳にひと筋線を引いた。風がわずかに鳴き、町の音が整う。
「谷へ二、丘へ一。線は半手引く」女が囁く。
「覚えた」ライラは筆先に残る香を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、黒粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“紋守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、染料の匂いと溶け合う。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
通りの壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが線に隠れて見えない。代わりに、風の流れと筆の軌跡が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は線」ライラが指で描かれた紋をなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
女が小瓶をミーナに渡した。中には青い染料が沈んでいる。「器に垂らせば味が整う」
「受け取ります。杯と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、町の裏手で短い休止。火は使わず、“紋守りの薄”を裂き、染粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が軽くなる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、町を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「紋は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、町を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に染料の滴を落とし、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼紋の町、線描き、染料。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、町の光が一度だけ揺れた。
星が出る。音は静まり、道は前へ延びている。
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“町の音”や“模様のある街並み”にまつわる記憶があれば、一つ教えてください。また明日。




