第083話 黒凪の平原
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼雫の峡谷を抜けると、風が止まった。音が一切なく、空と地の境も見えない。“黒凪の平原”。草も石もなく、ただ乾いた黒土が果てまで続いている。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風の気配もない」カイが耳を澄ます。
「雫も火も過ぎた。今日は静寂が舌」ライラが掌で地を叩いた。音がしない。
平原の中央に、黒衣をまとった老兵が座していた。腰紐に藍はない。掌に握るのはひび割れた杯。
「ここでは声が重い。息を強くすれば、風が割れる。……通るなら、黙って三歩進め」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが一歩、ライラが二歩、ヴォルクが三歩目を踏む。黒土が鳴かず、空がわずかに揺れた。
「谷へ二、丘へ一。歩は半手短く」老兵が囁く。
「覚えた」ライラは空気の重さを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、透明石粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“凪守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、音のない空気に溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
平原の中央に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、黒土に沈んで見えない。代わりに、沈黙と振動が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は凪」ライラが地面に指を這わせた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老兵が黒い杯をミーナに渡した。「器に重ねれば音が落ち着く」
「受け取ります。透明石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、平原の中央で短い休止。火は使わず、“凪守りの薄”を裂き、黒粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。耳が澄む」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、平原の端にたどり着くころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「凪は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、平原を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に杯を重ね、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒凪の平原、三歩進み、杯。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、沈黙が再び戻った。
星が出る。風は眠り、道は前へ延びている。
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“無音の空気”や“風のない場所”にまつわる思い出があれば、一つ教えてください。また明日。




