第082話 蒼雫の峡谷
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
紅火の段丘を越えた先で、風が冷たくなった。岩の隙間から水が滴り落ち、音が幾重にも重なっている。“蒼雫の峡谷”。壁は濡れ、空気は澄んでいた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……水の匂い」カイが掌を広げた。雫が弾き、皮膚に残った。
「火も灰も過ぎた。今日は雫が舌」ライラが壁際に寄り、水の流れを指でなぞる。
峡谷の中央に、膝まで水に浸かった若い男がいた。腰紐に藍はない。両手で石鉢を支え、その中には光る雫が溜まっている。
「夜になると雫が歌う。風を通せば眠る。……通るなら、息でひと粒吹いてやってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を支え、ライラがそっと息を吹いた。水面が一瞬震え、音が沈んだ。
「谷へ二、丘へ一。息は半手吹く」男が囁く。
「覚えた」ライラは雫の音を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、赤石粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“雫守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、湿りが香りに溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
峡谷の壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが水滴に滲んで見えない。代わりに、滴の連なりと音の間が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は雫」ライラが掌で壁を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
男が透明な石をミーナに渡した。「器に沈めれば香りが澄む」
「受け取ります。赤石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峡の影で短い休止。火は使わず、“雫守りの薄”を裂き、水粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が透く」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、峡を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「雫は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峡を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に透明石を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼雫の峡谷、息吹き、透明石。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、雫の音が遠くで重なった。
星が出る。水は静まり、道は前へ延びている。
読了感謝。ブクマ・評価が次の筆の燃料になります。
“水滴”や“洞窟の音”で思い出す景色があれば、一つ教えてください。また明日。




