第081話 紅火の段丘
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼影の壁を抜けた先で、風が温くなった。遠くで火の音がして、空の端が赤く滲む。“紅火の段丘”。岩肌に火口の跡がいくつも並び、吹き出した灰がまだ熱を抱えている。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵あり。鏡なし。……空気が焦げてる」カイが息をゆっくり吐いた。
「影も鉄も過ぎた。今日は火が舌」ライラが岩肌に掌を当て、熱の脈を感じた。
段丘の端に、背を丸めた火守の老人が一人。腰紐に藍はない。手には赤い灰を入れた袋を提げている。
「昼は眠る火が夜に呼ぶ。……通るなら、灰を撒いてやってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが灰を受け取り、ライラが指先でひと掬い撒く。風がわずかに鳴き、火口が静まる。
「谷へ二、丘へ一。灰は半手撒く」老人が囁く。
「覚えた」ライラは掌に残った熱を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、影粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“火守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、焦げた匂いが鼻を撫でる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
段丘の岩に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが灰で半ば覆われている。代わりに、熱と脈の波が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は火」ライラが岩を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老人が赤い小石をミーナに渡した。「器に沈めれば温が長く続く」
「受け取ります。石片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、火口の影で短い休止。火は使わず、“火守りの薄”を裂き、火粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。熱が均される」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、段丘を登り切るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「火は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、段丘を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に赤石を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:紅火の段丘、灰撒き、赤石。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、遠くで火の名残が一度だけ光った。
星が出る。火は眠り、道は前へ延びている。
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“火”や“夕暮れの赤”で思い出す光景があれば、一つ教えてください。また明日。




