第080話 蒼影の壁
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼雷の丘を下りた先に、風が止まり、空の色が深く沈んだ。崖のように切り立つ岩が並び、片面だけが陽を受けて淡く光っている。“蒼影の壁”。風はなく、足音が吸い込まれる。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……影が濃い」カイが目を細めた。
「雷も砂も過ぎた。今日は壁が舌」ライラが掌を壁に当て、光と影の境をなぞった。
壁の陰に、長い外套を着た男が立っていた。腰紐に藍はない。掌に煤のような粉を握りしめている。
「昼は光が刺す。夜は影が伸びる。……通るなら、一度だけ粉を撒いていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが粉を受け取り、ライラが風のない空気にひと握り撒く。粉は広がらず、ゆっくり沈んだ。
「谷へ二、丘へ一。粉は半手撒く」男が囁く。
「覚えた」ライラは影の重さを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、磁片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“影守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、湿った岩の香りが混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
壁の下に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが光に焼かれて見えない。代わりに、影の揺れと石の脈が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は影」ライラが掌で影を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
男が黒い石片をミーナに渡した。「器の縁に置けば香りが沈む」
「受け取ります。磁片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、壁の陰で短い休止。火は使わず、“影守りの薄”を裂き、粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が落ち着く」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、壁を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「影は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、壁を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に黒い石片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼影の壁、粉撒き、石片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、影が静かに揺れた。
星が出る。影は眠り、道は前へ延びている。
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“影”や“光の境”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




