第078話 煉灰の宿
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼鉄の門を抜けて三日の道程、ようやく風の音が途切れた。谷を渡る街道の脇に、赤く煤けた屋根が見える。“煉灰の宿”。焼き場の跡を改装した古い宿だ。煙はなく、匂いだけが残る。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……火の跡の匂い」カイが鼻を鳴らす。
「鉄も砂も過ぎた。今日は灰が舌」ライラが土壁を掌で撫でた。温もりがまだ残っている。
宿の前で、煤を被った老女が座っていた。腰紐に藍はない。指先が黒く、目は穏やかだ。
「夜は風が戻る。火を呼べば鳴く。……泊まるなら、灰を三度撫でていって」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが灰を指で掬い、ライラが掌で三度、土に描くように撫でた。灰が舞わず、空気が落ち着く。
「谷へ二、丘へ一。灰は半手で撫でる」老女が囁く。
「覚えた」ライラは灰の感触を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、鉄粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“灰宿りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、煤の香が混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
宿の壁の角に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが煤で覆われて見えない。代わりに、壁の呼吸と温度が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は灰」ライラが指で壁を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老女が灰色の陶片をミーナに渡した。「器に沈めれば熱が穏やかに続く」
「受け取ります。鉄片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、宿の裏手で短い休止。火は使わず、“灰宿りの薄”を裂き、煉灰粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が温まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、宿を離れるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「灰は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、宿を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に陶片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:煉灰の宿、灰撫で、陶片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、煙の名残が淡く揺れた。
星が出る。灰は静まり、道は前へ延びている。
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“古い宿”や“火の名残”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




