第075話 白霜の野
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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漆黒の峡路を抜けると、世界が一変した。風は凍え、大地は白く覆われている。“白霜の野”。草は霜を抱き、陽を受けて光の粒を散らしていた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……息が刺さる」カイが吐いた白い息がすぐに霧になった。
「闇も灰も過ぎた。今日は霜が舌」ライラが地面に膝をつき、霜の粒を指で掬った。冷たさが骨を震わせた。
丘の下に、白衣を纏った老女が一人。腰紐に藍はない。掌に霜を丸めている。
「陽が落ちると霜が鳴く。布を掛けてやれば眠る。……通るなら、ひとひら包んでいって」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが布を広げ、ライラが霜を包んだ。音が止まり、空気が柔らかくなった。
「谷へ二、丘へ一。霜は半手包む」老女が囁く。
「覚えた」ライラは冷気の重さを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、松脂粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“霜守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、冷えた空気を柔らかく撫でる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
野の端に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが霜に隠れて読めない。代わりに、空気の震えと光の揺れが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は霜」ライラが包んだ布を指で押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老女が白い結晶をミーナに渡した。「器の縁に添えれば冷たさが穏やかになる」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、野の影で短い休止。火は使わず、“霜守りの薄”を裂き、霜粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が澄む」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、野を渡り切るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「霜は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、野を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に霜結晶を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:白霜の野、霜包み、結晶。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、夜気がふわりと揺れた。
星が出る。霜は静まり、道は前へ延びている。
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“冬の朝”や“白い息”にまつわる記憶があれば、一つ教えてください。また明日。




