第074話 漆黒の峡路
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼灰の野営地を発ち、谷を南へ下ると、光がすっと消えた。岩が高く積み重なり、陽が一筋も入らない。“漆黒の峡路”。足音が壁に返り、空気は濃い。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……声が戻る」カイが囁いた。
「灰も風も過ぎた。今日は闇が舌」ライラが足元を確かめ、掌で壁をなぞった。
峡の中程に、顔を布で覆った老人がいた。腰紐に藍はない。手に短い松脂灯を持っている。
「昼は黙る。夜になると音が這う。……通るなら、灯をひと息で消してくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが松脂灯を受け取り、ライラが唇を寄せて息を吹く。灯が小さく震えて消えた。
「谷へ二、丘へ一。灯は半手で吹け」老人が囁く。
「覚えた」ライラは煙の温度を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、灰粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“闇守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、湿った岩の匂いに溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
峡の壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが煤に覆われて見えない。代わりに、滴る音と空気の圧が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は闇」ライラが指で壁を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老人が煤けた松脂片をミーナに渡した。「器の蓋に挟めば香りが沈む」
「受け取ります。灰片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峡の陰で短い休止。火は使わず、“闇守りの薄”を裂き、松脂粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が落ち着く」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、峡を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「闇は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峡を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に松脂片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:漆黒の峡路、灯消し、松脂。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、岩肌がひと筋だけ光った。
星が出る。闇は静まり、道は前へ延びている。
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“暗闇”や“静寂”にまつわる記憶があれば、一つ教えてください。また明日。




