第073話 蒼灰の野営地
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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風骨の峠を越えると、空の色が薄く変わった。灰とも青ともつかない光が、草の先にまとわりついている。“蒼灰の野営地”。地はやわらかく、音を吸う。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……空気が止まってる」カイが息を殺した。
「風も茅も過ぎた。今日は空が舌」ライラが空を仰ぎ、指を伸ばす。指先の輪郭が淡く溶けた。
野の端に、灰色の外套を纏った兵が一人。腰紐に藍はない。肩には粉のような灰が積もっている。
「夜になると空気が沈む。火を焚けば崩れる。……通るなら、灰を一握り、土に混ぜてくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが灰を掬い、ライラが掌で土に馴染ませた。空の色がわずかに濃くなる。
「谷へ二、丘へ一。灰は半手混ぜる」兵が囁いた。
「覚えた」ライラは土の温度を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、風骨粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“灰守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、空気の香が鼻に残る。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
野の中央に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、灰に埋もれて見えない。代わりに、風の呼吸と沈黙の響きが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は空」ライラが灰を掌で押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
兵が薄い灰片をミーナに渡した。「器の底に敷けば熱が長持ちする」
「受け取ります。骨片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、野の影で短い休止。火は使わず、“灰守りの薄”を裂き、灰粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息がゆるむ」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、野を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「空は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、野を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に灰片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼灰の野営地、灰混ぜ、灰片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、空が一度だけ揺らめいた。
星が出る。灰は眠り、道は前へ延びている。
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“静かな夜”や“風の止む瞬間”で思い出す光景があれば、一つ教えてください。また明日。




