第072話 風骨の峠
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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白茅の道を越えると、風が鋭くなった。岩の肌がむき出しで、ところどころに骨のような白い柱が突き出している。“風骨の峠”。音は鳴らず、空気が擦れて軋む。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が裂けてる」カイが目を細めた。
「茅も根も過ぎた。今日は岩が舌」ライラが指先で風の筋をなぞる。
峠の中央に、古びた布を纏う男が立っていた。腰紐に藍はない。手に持つ棒の先で岩を叩いている。
「夜になると風が叫ぶ。骨を立てれば黙る。……通るなら一本だけ起こしていけ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を支え、ライラが棒を立てた。風が途切れ、音が変わる。
「谷へ二、丘へ一。骨は半手立てる」男が囁く。
「覚えた」ライラは風の重さを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、茅粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“風守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、風の匂いが混ざった。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
峠の斜面に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、風に削られて見えない。代わりに、岩の振動と空の低鳴りが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は風」ライラが棒の影を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
峠の男が薄い骨片をミーナに渡した。「器に添えれば香が立つ」
「受け取ります。茅と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峠の影で短い休止。火は使わず、“風守りの薄”を裂き、風骨粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が冴える」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、峠を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「風は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峠を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に骨片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:風骨の峠、棒立て、骨片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、風が頬をひとすじ撫でた。
星が出る。風は静まり、道は前へ延びている。
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“峠の風”や“高地の静けさ”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




