第071話 白茅の道
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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黒樹の森を抜けると、風が広がった。土の色は淡くなり、一面に白い茅がそよいでいる。“白茅の道”。陽を浴びた穂が波のように揺れ、音のない唄を奏でていた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が柔らかい」カイが眉を緩めた。
「根も水も過ぎた。今日は茅の唄が舌」ライラが穂を指で撫で、耳を澄ませた。
丘の端に、白布を纏った若い娘が一人。腰紐に藍はない。掌に茅の穂を束ねている。
「昼の風が強いと茅が裂けて鳴く。穂先を撫でてやれば黙る。……通るなら、三本だけ撫でていって」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが穂を支え、ライラが掌で三本を撫でた。風が音を変え、唄が静まる。
「谷へ二、丘へ一。茅は半手寝かす」娘が囁く。
「覚えた」ライラは穂の弾力を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、樹皮粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“茅守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、草の香に溶ける。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
丘の斜面に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、穂の影で見えない。代わりに、風の流れと茅のそよぎが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は茅」ライラが穂を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
娘が白い穂を一束、ミーナに渡した。「器に敷けば香りが残る」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、丘の陰で短い休止。火は使わず、“茅守りの薄”を裂き、茅粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。風の音が残る」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、丘を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「茅は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、丘を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に茅の穂を敷き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:白茅の道、穂撫で、茅束。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、穂が一筋、風に揺れた。
星が出る。風は静かに通い、道は前へ延びている。
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“野の匂い”や“草の音”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




