第070話 黒樹の根
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼環の灯台を離れて半日、道は森の影へと沈んでいった。陽が届かず、地面は柔らかく、根が網のように絡み合っている。“黒樹の根”。枝葉は厚く、風すら通わない。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……土が眠ってる」カイが囁く。
「光も水も過ぎた。今日は根が舌」ライラが指先で土を掘り、根の脈を確かめた。
幹の陰に、黒衣をまとった樹守の男が一人。腰紐に藍はない。掌は樹皮で黒く、指先は硬く光っている。
「夜になると根が軋む。上に風を通せば黙る。……通るなら、枝を一つだけ切ってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが枝を押さえ、ライラが小刀で半手だけ削いだ。音が短く鳴り、すぐ消えた。
「谷へ二、丘へ一。根は半手上げる」樹守が囁く。
「覚えた」ライラは樹皮の感触を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、光草の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“根守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、木の匂いが鼻に残る。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
森の根元に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが樹皮に沈んで見えない。代わりに、根の伸びと湿りが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は根」ライラが根の節を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
樹守が黒い樹皮片をミーナに渡した。「器の蓋に置けば温が抜けにくい」
「受け取ります。赤芽と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、森の陰で短い休止。火は使わず、“根守りの薄”を裂き、樹皮粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が沈まない」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、森を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「根は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、森を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に樹皮片を置き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒樹の根、枝削ぎ、樹皮。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、根の音がひとつだけ響いた。
星が出る。森は静まり、道は前へ延びている。
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“森の匂い”や“木のぬくもり”で思い出す瞬間があれば、一つ教えてください。また明日。




