第068話 黒水のほころび
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
蒼燐の谷を過ぎると、風が止み、空が曇り始めた。地面が黒く濡れていて、踏むたびに波のように揺れる。“黒水のほころび”。土と水の境が曖昧な窪地だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……水が重い」カイが耳を澄ます。
「光も芽も過ぎた。今日は水の底が舌」ライラがしゃがみこみ、指先を浸した。ぬるく、深さがない。
窪の端に、片足を濡らした老人が一人。腰紐に藍はない。掌は黒い水で染まっている。
「夜になると水が裂けて唄う。石を寝かせれば黙る。……通るなら、一つだけ沈めて」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を拾い、ライラが半手だけ水に押し入れた。黒い膜がひと呼吸して静まる。
「谷へ二、丘へ一。石は半手沈める」老人が囁く。
「覚えた」ライラは水の冷たさを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、赤芽の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“水守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、湿った匂いに溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
窪の中央に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水膜に覆われて見えない。代わりに、泡の浮き沈みと音の間が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は水」ライラが泡を指でつつく。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老人が小瓶をミーナに渡した。中には黒水をひと滴。「器に垂らせば香が落ち着く」
「受け取ります。硝子片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、窪の縁で短い休止。火は使わず、“水守りの薄”を裂き、黒水の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が静まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、黒い窪を抜けるころ、遠い肩で白い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「水は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、窪を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に黒水を垂らし、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒水のほころび、石沈め、黒水。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、水面がひと筋ゆれた。
星が出る。水は眠り、道は前へ延びている。
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“雨上がりの水”や“静かな夜の湿り”で思い出す感覚があれば、一つ教えてください。また明日。




