第067話 蒼燐の谷灯
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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赤芽の窪を越えると、夜の底がひときわ青く光っていた。谷の斜面に点々と灯が浮かび、火ではなく虫の翅が放つ光だった。“蒼燐の谷灯”。風は止まり、空気がやさしく震えている。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……息が明るい」カイが囁く。
「芽も枝も過ぎた。今日は翅の光が舌」ライラが手をかざし、青い燐光を掌に受けた。
谷の底に、翅を模した布を纏う男が一人。腰紐に藍はない。指先は淡く光っている。
「夜になると光が集まりすぎて唄う。風を作れば散る。……通るなら、一度だけ息を吹いて」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが帆布を低く張り、ライラが掌を口に当てて短く息を吐く。光の粒が揺れ、唄がやむ。
「谷へ二、丘へ一。息は半手で足りる」男が囁く。
「覚えた」ライラは光の温度を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、赤芽の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“燐守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、光の匂いに溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
谷の壁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが光に覆われて見えない。代わりに、翅の振るいと影の濃淡が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は光」ライラが空を見上げた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
男が小さな硝子片をミーナに渡した。「器の縁に置けば光が柔らかくなる」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、谷の陰で短い休止。火は使わず、“燐守りの薄”を裂き、粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が軽くなる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、谷を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「光は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に硝子片を添え、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼燐の谷灯、風起こし、硝子片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、光がゆるく震えた。
星が出る。光は沈み、道は前へ延びている。
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“蛍”や“光の粒”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




