第066話 赤芽の窪
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
黒羽の丘を越えると、風が止み、土の匂いが濃くなった。地面が柔らかく沈み、草の間から赤い芽が顔を出している。“赤芽の窪”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……息の味が甘い」カイが鼻で風を撫でた。
「羽も影も過ぎた。今日は芽の呼吸が舌」ライラがしゃがみ込み、指先で芽を撫でた。
窪の中央に、腰を曲げた女が一人。腰紐に藍はない。掌は土で赤く染まっている。
「夜になると芽が唄う。風がない夜は根を少し切れば静かになる。……通るなら、一つだけ整えて」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが根を掘り、ライラが小刀で半手だけ切る。土が湿って沈み、音が消えた。
「谷へ二、丘へ一。根は半手寝かす」女が囁いた。
「覚えた」ライラは掌に土の温度を残した。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、乾苔の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“芽守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、土の香がやわらぐ。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
窪の端に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが土で半分は隠れている。代わりに、根の伸びと湿りが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は芽」ライラが根を指で押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
女が掌に乗るほどの赤い芽をミーナに渡した。「器に添えれば温が長く続く」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、窪の陰で短い休止。火は使わず、“芽守りの薄”を裂き、赤芽の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉がやわらぐ」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、窪を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「芽は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、窪を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に赤芽を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:赤芽の窪、根切り、赤芽。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、芽が一つだけ揺れた。
星が出る。土は眠り、道は前へ延びている。
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“土の香り”や“芽吹き”にまつわる思い出があれば、一つ教えてください。また明日。




