第065話 黒羽の丘
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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銀鱗の渡河を越えた先で、風が乾きに変わった。丘が幾重にも重なり、その上を黒い鳥の群れが旋回している。“黒羽の丘”。羽音が絶え間なく続き、陽がかすんで見えた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵あり。鏡なし。……羽の音が近い」カイが目を細めた。
「流れも枝も過ぎた。今日は風が舌」ライラが手の甲を空にかざし、気流の角度を測る。
丘の中腹に、黒布をまとった老いた飼い人が一人。腰紐に藍はない。肩に羽根が積もり、掌は灰のように乾いている。
「夜になると群れが降りる。火を使えば鳴く。……通るなら、灰を撒いて匂いを消してくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが袋から灰を取り、ライラが風下に撒いた。羽音が短く途切れ、丘が静まる。
「谷へ二、丘へ一。灰は半手で足りる」飼い人が囁く。
「覚えた」ライラは風の向きを掌に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、乾苔の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“羽休めの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、空の匂いと混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
丘の斜面に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、灰で半分は覆われている。代わりに、風の流れと羽音が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は風」ライラが灰の残りを押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
飼い人が小袋をミーナに渡した。中には乾いた羽根が数枚。「器の蓋に挟めば匂いが抜けない」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、丘の陰で短い休止。火は使わず、“羽休めの薄”を裂き、灰の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。風がやわらぐ」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、丘を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「羽は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、丘を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に乾いた羽根を挟み、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒羽の丘、灰撒き、羽根。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、空の群れがひとつ輪を描いた。
星が出る。風は静まり、道は前へ延びている。
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“鳥”や“風の音”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




