第064話 銀鱗の渡河
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼枝のほとりを抜けると、風が冷たくなり、やがて水の音が耳を満たした。川幅は広く、陽光を受けて波が銀色に踊る。“銀鱗の渡河”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……魚影が浅い」カイが水面を覗く。
「枝も霧も過ぎた。今日は流れが舌」ライラが掌を水に沈めた。冷たさが骨に届く。
川の中洲に、腰まで水に浸かる渡守が一人。腰紐に藍はない。肩に網をかけている。
「夜は流れが光を噛む。石を並べて向きを変えれば黙る。……通るなら、三つだけ置いていってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を拾い、ライラがそれを半手寝かせるように置く。水が一瞬唄い、音が沈んだ。
「谷へ二、丘へ一。流れは半手返す」渡守が囁いた。
「覚えた」ライラは掌で波を撫で、骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、光草の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“川守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、潮の香が立つ。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
中洲の岩に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが水に削られて読めない。代わりに、石の並びと波の音が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は流れ」ライラが石の角を押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
渡守が掌大の銀色の石をミーナに渡した。「器の底に沈めれば光を留める」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、川辺の影で短い休止。火は使わず、“川守りの薄”を裂き、光草の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。流れが舌に残る」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、川を渡り切るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「流れは眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、川を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に銀石を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:銀鱗の渡河、石並べ、銀石。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、波が一度だけ光を返した。
星が出る。水は眠り、道は前へ延びている。
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“川渡り”や“水音”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




