第063話 蒼枝のほとり
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
白糸の渓を抜けて、丘の肩を越えると風がやわらかくなった。水が地の下で息をしているのか、土の香りに冷たさが混じる。低い林が見え、枝が青い。“蒼枝のほとり”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が湿ってる」カイが鼻で匂いを嗅ぐ。
「糸も霧も過ぎた。今日は枝の影が舌」ライラが葉を手に取り、光の角度を測った。
林の端に、腰を曲げた老木守が一人。腰紐に藍はない。掌には削り痕が多い。
「この枝は夜に鳴く。風を飲ませれば眠る。……通るなら、葉を一枚、沈めてくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが枝を押さえ、ライラが葉を手でねじって風の向きに沈めた。枝が一度鳴り、音は消えた。
「谷へ二、丘へ一。葉は半手寝かせる」老木守が囁く。
「覚えた」ライラは葉の筋を指でなぞり、骨に角度を刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、光草の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“枝守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、木の香に溶ける。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ言った。
林の奥に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが木の影で見えない。代わりに、枝の角度と葉の揺れが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は葉」ライラが葉の縁を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老木守が木屑を包んでミーナに渡した。「器に敷けば香が抜けにくい」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、林の陰で短い休止。火は使わず、“枝守りの薄”を裂き、葉粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が風を覚える」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、林を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「枝は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、林を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に木屑を敷き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼枝のほとり、葉沈め、木屑。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、葉が一枚、静かに落ちた。
星が出る。林は眠り、道は前へ延びている。
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“木の香り”や“枝の音”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




